9/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「環境倫理学とは何か?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。今年は史上最高の猛暑日を数えるなど過酷な夏を過ごしましたが、それにマッチしたテーマだったと自負しています。
現地参加者4名でしたが、コロナ禍の3年間長らくオンラインで参加されていた方が久しぶりに現地に参加して祝福された雰囲気となりました。その一方でシビアなディスカッションも行いました。
第1部では、参加者の基礎知識を揃えるために環境倫理学の基礎を成す倫理学の概観を行い、そこから環境倫理学がなぜ派生したのかについてお話ししました。従来の民主主義と資本主義を駆動した功利主義と義務論という倫理学の2本柱が前提としていた地球環境ではなくなり、人間の能力が科学技術の発展によって過大なものになったという前提の変化が環境倫理学の成立に寄与していることをご紹介しました。前回のLGBTを対話した時に21世紀の哲学が必要ではという話になりましたが、環境倫理学がそれにふさわしいということは可能です。
もう一つの倫理学の柱である徳倫理学についても紹介しました。アリストテレスのニコマコス倫理学にさかのぼる伝統ある倫理学ではあるものの近代においては功利主義と義務論の陰に隠れていましたが、近年の科学技術の発展による従来の倫理学の行き詰まりに応じて、生き方の指針を具体的な徳目や人物に見出す方法論が脚光を浴びていることを紹介しました。具体的には以前の哲学カフェでも取り上げたマイケル・サンデルが現代の徳倫理学の代表的な人物で、何が徳のある生き方なのかについて、能力主義(メリトクラシー)の批判など実効性のある議論を追求していることが知られています。環境倫理学との関連では、レイチェル・カーソンや田中正造のような環境問題に身を投じた人物をモデルとして、私たちの日常生活における消費行動を自省するきっかけとすることが考えられます。
こういった基礎知識を踏まえた上で、第1部の途中から第2部までは、人間中心主義の再考というキーワードをめぐって激論が交わされました。「がまんを強いるやり方は問題だ」という意見が出ましたが、それは典型的な従来の倫理学(功利主義)から来る考え方で、時間軸を伸ばして未来の主体の便益を計数するのが環境倫理学の方法論なので、それは環境倫理学に対する批判にはなっていないのではないかという見解がありました。
それに対しては、未来がどうなるかはやってみないと分からないので、未来の主体の便益を忖度することに意味はないという反論がなされました。それに対しては、科学によってある程度妥当性のある推論は可能である分、全くの無意味ということはないという見解が示されました。
ただ、環境倫理学の弱点としては、専門性のある議論を展開することが困難で、個別具体的な課題のジレンマを検討する際は、専門家の見解に説得力と妥当性があり、素人である環境倫理学者の見解を聴くことにどれだけの意味があるのかという問題はあります。
そこで、第3部では、建築を専門とされる方に2025年以降の新築住宅「省エネ基準」適合義務化問題や、また、中古住宅のリフォームが環境問題の改善にどれだけ実効性があるのかなどお聞きするなど、専門性のある議論を展開することができたのではないかと自負しています。建築家の方から、断熱性能にこだわらず通気性のある住宅の方が深い意味での環境との親和性を模索する可能性があるのではという見解を示していただき、通り一遍でない知見を得ることができました。
また、SDGsについては「大衆のアヘンだ」とされるなど反論も激しく、中には「エコ・ファシズム」ではないかという批判すらあります。それは極論であるにしても、「すきま風が入る家でもいいではないか」とする建築家の方が挙げてくださった見解など、深く多様性のある議論を展開する必要があり、その点では環境倫理学はそのような懐の深い議論の土壌を整える役割はあるのではないかとファシリテーターは考えるようになりました。個別具体的な専門家の見解は必要不可欠ですが、専門家が見落としている問題点を洗い出す吟味役として、あるいは利害の衝突する議論の現場を仲裁する役割が環境倫理学にはあるように思います。
ただ、環境問題を論じる上でのジレンマは、多くのケースではお金の問題に帰着するのではないかと言う点は、第3部の議論である程度のコンセンサスは得ることができました。環境を保全するインフラへの投資額は膨大で、現実的には確率論的に落としどころを探りながら費用面で無理のない予算で処理しているわけです。しかし、日進月歩の勢いで科学技術の進歩とともに、私たち人間の影響力が大きくなってきており、今年の酷暑のように大きな予算を投じる必然性も痛感します。
そこで次回は「再論:お金とは何か」というテーマで議論をしていきます。数年前ににも議論したテーマですが、前回は不完全燃焼で終わったのと、また気候変動が切実な問題になってきている点で、違う議論ができるのではないかと期待しています。また、私たちはコロナ禍において膨大な給付金を受け取って、そしてその後の世界的なインフレという史上稀な経験をしました。さらに、日本政府はコロナ禍を経て膨大な国債を発行しており、お金については世界でも最先端の実験場でもあるため、私たちはいま、お金について一層深い議論ができるのではないかと思います。