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Well Being

【活動報告】第64回哲学カフェ×ミュージアム「ウェルビーイングとは何か?」2023/11/19

11/19(日)にFactory Art Museum Toyama において「ウェルビーイングとは何か?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地5名、オンライン参加1名での開催となりました。前日の寒い気候が打って変わって穏やかな一日になったことも幸いしました。

地元富山県の新田知事肝煎り政策であることもあり、ホワイトボードに向かって立ち上がり、オンライン参加配信用のマイクを奪い合っての議論が白熱して、哲学カフェ史上最高の活況を呈しました。

最初のウェルビーイングについての各々の感想を聞いた後に、ウェルビーイングの源流とされるニコマコス倫理学の概略を紹介して、 世界で模索されているウェルビーイング関連の指標や学問分野を紹介しました。Better life Index(OECD)世界幸福度報告(SDSN)といった指標がきめ細かな世界各地の状況を統計的なデータで比較参照できることをご紹介しました。また、ポジティブ心理学が大きな影響を与えており、特にPERMAの法則が統計的にデータが集められている点が特記できることもご紹介しました。

Better Life Index や世界幸福度報告と比べて、富山県版ウェルビーイングは主観性にパラメータを振っていることが特徴的であり、他にない試みであることは評価できる一方で、指標としての有効性を減少させるリスクを伴うことを指摘しました。 フリーディスカッションでは、以下の点が印象に残りました。

  • 大辞職時代においてポジティブ心理学のPERMAの法則が人びとの仕事の充実感を高める可能性がある
  • SDGsとの関連性
  • 富山県のウェルビーイング政策はウェルビーイングビジネスの餌食になろうとしている
  • 世界幸福度報告において、コロナ禍以降で日本は3年連続で順位を上昇させている
  • ウェルビーイングの計測可能性と、目に見えない実存的な幸福との緊張関係
  • 世界の中での北陸の幸福度を計測できるBetter Life Indexのきめ細やかさ
  • 富山県は若い女性が流出し続けているのに幸福と言えるのか?
  • 富山県の幸福度の高さは、年輩男性の幸福度が高いだけなのでは?
  • 人・物・金が資本の大きい方へと駆り立てられる(ゲシュテル)のは世界的に共通の課題
  • ウェルビーイングもSDGsもゲシュテルにタガをはめようとする一つの試み

お金とはなにか?

【活動報告】第63回哲学カフェ×ミュージアム「お金とは何か?」2023/10/22

10/22(日)にFactory Art Museum Toyama において「お金とは何か?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

前回の哲学カフェでは、環境倫理学とは何かというテーマで議論しました。環境問題に対する人間の責任や価値観について、様々な視点から考えることができましたが、風力発電1基をとっても数十億円のプロジェクトになってしまい、結局はお金の問題に尽きるのではないかという見解にたどり着きました。

そこで、今回はずばり「お金とは何か」という問いに挑みました。お金は私たちの日常生活に欠かせないものですが、その本質や意味はなかなか捉えにくいものです。お金はどのように生まれ、どのように流通し、どのように消滅するのでしょうか。お金は人間の幸福や社会の正義にどのように影響するのでしょうか。お金に関する哲学的な思考を深めるために、以下の二人の著者の本を参考にしました。

まず、マリアナ・マッツカートの「ミッションエコノミー」を紹介しました。マッツカートはイタリア出身の経済学者で、イノベーションや公共価値に関する研究で知られています。彼女は本書で、現代社会における経済学の限界や問題点を指摘し、新しい経済パラダイムを提案しています。彼女は、経済学が市場や競争を神聖化し、国家や公共部門を無視したり悪者扱いしたりしてきたと批判します。彼女は、国家や公共部門がイノベーションや社会的変革を牽引する重要な役割を果たすことができると主張します。そのためには、国家や公共部門が単なるサービス提供者ではなく、ビジョンやミッションを持つ創造的な主体として機能する必要があると言います。彼女は、アポロ計画を例に挙げて、国家や公共部門が市民や民間企業と協働して大きな目標に向かって挑戦することで、経済的・社会的・環境的な価値を生み出すことができると説明します。彼女は、私たちがお金や経済に対する考え方を変えることで、より公正で持続可能な社会を実現できると提唱します。

次に、政府高官のブレインを務める彼女とは対照的な立場に立つデイビッド・グレーバーの『負債論 貨幣と暴力の5000年』を紹介しました。グレーバーはアメリカ出身の人類学者で、アナーキストとしても活動していました。彼は、お金とは負債であると明言して、その負債を人類学の歴史的・文化的・社会的な観点から分析しています。彼は、貨幣と暴力の5000年の歴史を以下のようにまとめています。

年代 信用と地金の関係 地域 特性   貨幣の流通形態 象徴となる人物
B.C.3500~800 信用>地金 メソポタミア、エジプト、中国 物品・労役の貸借の履歴管理 超越性 借用証書:共同体内での流通、利子の否定、徳政令  
B.C.800~A.D.600 信用<地金 ギリシャ、インド、中国 統一をめぐる戦争→哲学・宗教の発展 唯物論 傭兵への報酬:地金による支給 ピタゴラス、プラトン、仏陀、孔子・孟子
A.D.600~1450 信用>地金 中国、インド、中東、西洋 商品市場と普遍宗教の融合、宗教が経済を統制 超越性 手形、割符、紙幣、複式簿記、利子の否定  
A.D.1450~1971 信用<地金 西洋(大航海時代) 宗教改革、科学の発展 唯物論 奴隷労働、金銀鉱山の開発、国外・共同体外との交易 ルター、カルヴァン、ツウィングリ
A.D.1971~ 信用>地金 ニクソンショック、世界金融危機 金融資本主義、経済成長の終焉 超越性? 不換紙幣、ペトロダラー、クレジットカード、仮想通貨 ニクソン

信用と地金という対立軸をもとに明快に5000年の歴史絵巻をまとめあげる様には感嘆させられますが、同時に疑問や批判も残ります。例えば、彼の歴史観は単純化されすぎていないか?彼の負債論は実証的に検証できるか?彼のアナーキズムは現実的な解決策を提案できるか?などです。

対照的な2人の著者の本を参考にして、哲学カフェではお金とは何かというテーマについて議論しました。参加者はそれぞれ自分の経験や知識や意見を持ち寄って、ポイントやふるさと納税など現実に機能する現象を参照しながら、お金に関する様々な側面や問題点を共有しました。お金は私たちの生活や社会に深く関わっているものですが、その本質や意味はなかなか明らかではありません。お金に対する哲学的な思考を深めることで、私たちは自分自身や他者や社会との関係を見直すことができるかもしれません。

貨幣経済における計算的な志向と哲学宗教に与える影響についてのグレーバーの分析が実に興味深いものでしたが、政治経済において「計測」は避けられず、GDP主導の社会は問題が多いのは確かですが、それに代わる指標の導入は急務です。その一つとして模索されているウェルビーイングという概念について、次回は哲学カフェのテーマとします。富山県では新田知事の肝煎り政策となっていて、賛否両論喧しい状態となっていますが、そのノイズを抑制した上で哲学的な光を当てて、深く理解を努めて対話を促していくつもりです。

【活動報告】第62回哲学カフェ×ミュージアム「環境倫理学とは何か?」2023/9/17

9/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「環境倫理学とは何か?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。今年は史上最高の猛暑日を数えるなど過酷な夏を過ごしましたが、それにマッチしたテーマだったと自負しています。

現地参加者4名でしたが、コロナ禍の3年間長らくオンラインで参加されていた方が久しぶりに現地に参加して祝福された雰囲気となりました。その一方でシビアなディスカッションも行いました。

第1部では、参加者の基礎知識を揃えるために環境倫理学の基礎を成す倫理学の概観を行い、そこから環境倫理学がなぜ派生したのかについてお話ししました。従来の民主主義と資本主義を駆動した功利主義義務論という倫理学の2本柱が前提としていた地球環境ではなくなり、人間の能力が科学技術の発展によって過大なものになったという前提の変化が環境倫理学の成立に寄与していることをご紹介しました。前回のLGBTを対話した時に21世紀の哲学が必要ではという話になりましたが、環境倫理学がそれにふさわしいということは可能です。

もう一つの倫理学の柱である徳倫理学についても紹介しました。アリストテレスのニコマコス倫理学にさかのぼる伝統ある倫理学ではあるものの近代においては功利主義と義務論の陰に隠れていましたが、近年の科学技術の発展による従来の倫理学の行き詰まりに応じて、生き方の指針を具体的な徳目や人物に見出す方法論が脚光を浴びていることを紹介しました。具体的には以前の哲学カフェでも取り上げたマイケル・サンデルが現代の徳倫理学の代表的な人物で、何が徳のある生き方なのかについて、能力主義(メリトクラシー)の批判など実効性のある議論を追求していることが知られています。環境倫理学との関連では、レイチェル・カーソンや田中正造のような環境問題に身を投じた人物をモデルとして、私たちの日常生活における消費行動を自省するきっかけとすることが考えられます。

こういった基礎知識を踏まえた上で、第1部の途中から第2部までは、人間中心主義の再考というキーワードをめぐって激論が交わされました。「がまんを強いるやり方は問題だ」という意見が出ましたが、それは典型的な従来の倫理学(功利主義)から来る考え方で、時間軸を伸ばして未来の主体の便益を計数するのが環境倫理学の方法論なので、それは環境倫理学に対する批判にはなっていないのではないかという見解がありました。

それに対しては、未来がどうなるかはやってみないと分からないので、未来の主体の便益を忖度することに意味はないという反論がなされました。それに対しては、科学によってある程度妥当性のある推論は可能である分、全くの無意味ということはないという見解が示されました。

ただ、環境倫理学の弱点としては、専門性のある議論を展開することが困難で、個別具体的な課題のジレンマを検討する際は、専門家の見解に説得力と妥当性があり、素人である環境倫理学者の見解を聴くことにどれだけの意味があるのかという問題はあります。

そこで、第3部では、建築を専門とされる方に2025年以降の新築住宅「省エネ基準」適合義務化問題や、また、中古住宅のリフォームが環境問題の改善にどれだけ実効性があるのかなどお聞きするなど、専門性のある議論を展開することができたのではないかと自負しています。建築家の方から、断熱性能にこだわらず通気性のある住宅の方が深い意味での環境との親和性を模索する可能性があるのではという見解を示していただき、通り一遍でない知見を得ることができました。

また、SDGsについては「大衆のアヘンだ」とされるなど反論も激しく、中には「エコ・ファシズム」ではないかという批判すらあります。それは極論であるにしても、「すきま風が入る家でもいいではないか」とする建築家の方が挙げてくださった見解など、深く多様性のある議論を展開する必要があり、その点では環境倫理学はそのような懐の深い議論の土壌を整える役割はあるのではないかとファシリテーターは考えるようになりました。個別具体的な専門家の見解は必要不可欠ですが、専門家が見落としている問題点を洗い出す吟味役として、あるいは利害の衝突する議論の現場を仲裁する役割が環境倫理学にはあるように思います。

ただ、環境問題を論じる上でのジレンマは、多くのケースではお金の問題に帰着するのではないかと言う点は、第3部の議論である程度のコンセンサスは得ることができました。環境を保全するインフラへの投資額は膨大で、現実的には確率論的に落としどころを探りながら費用面で無理のない予算で処理しているわけです。しかし、日進月歩の勢いで科学技術の進歩とともに、私たち人間の影響力が大きくなってきており、今年の酷暑のように大きな予算を投じる必然性も痛感します。

そこで次回は「再論:お金とは何か」というテーマで議論をしていきます。数年前ににも議論したテーマですが、前回は不完全燃焼で終わったのと、また気候変動が切実な問題になってきている点で、違う議論ができるのではないかと期待しています。また、私たちはコロナ禍において膨大な給付金を受け取って、そしてその後の世界的なインフレという史上稀な経験をしました。さらに、日本政府はコロナ禍を経て膨大な国債を発行しており、お金については世界でも最先端の実験場でもあるため、私たちはいま、お金について一層深い議論ができるのではないかと思います。