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当日の会場の様子

【活動報告】第82回哲学カフェ「ユク・ホイの宇宙技芸を通じて考える:近代の超克と技術的未来の可能性」2025/4/20

4/20(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地7名、オンライン1名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。

当日の会場の様子
当日の会場の様子

ユク・ホイの「宇宙技芸」と「技術多様性」をテーマに、西田幾多郎と京都学派の「近代の超克」の限界を踏まえつつ、技術の未来について対話を深めました。前回の西田の議論から引き継いだ「近代を超えるとは何か」という問いを軸に、ホイの視点が現代にどう活かせるかを探りました。以下に、その概要を報告します。

1. ユク・ホイの思想と書籍の紹介

今回の哲学カフェでは、ホイの主要著作『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(2016年、日本語訳2022年)『再帰性と偶然性』(2019年、日本語訳2022年)を基盤に対話が進められました。『中国における技術への問い』では、ホイは技術を単なる道具ではなく、各文化の宇宙論に根ざした多様な実践として再定義する「宇宙技芸」を提唱。たとえば、中国の「道と器」の思想を基に、技術が自然や文化と調和する可能性を探ります。一方、『再帰性と偶然性』では、サイバネティクスやAIの発展を背景に、技術システムが自己還帰する「再帰性」と予測不可能な「偶然性」が技術の進化にどう影響するかを分析。ホイは、再帰性と偶然性が技術の決定論を超え、人間の有機性や自由を擁護する余地を切り開くと主張します。たとえば、AIが再帰的に自己最適化する一方、偶然性を活用することで、文化的多様性や創造性を反映した技術開発が可能になると論じます。

2. 西田の限界とホイの可能性

対話は、西田幾多郎の「近代の超克」の歴史的挫折から始まりました。参加者は、西田の「純粋経験」や「場所の論理」が西洋の二元論を超える可能性を持ちながら、戦時中の政治的現実を無視し、プロパガンダに利用された点を指摘。「形而上学を超えないまま」との声が上がり、京都学派の試みが政治的誤謬に陥った歴史を再確認しました。一方、ホイの「宇宙技芸」は、AIやデジタル社会といった現実的課題に着目し、哲学と技術実践を結びつける可能性が評価されました。ホイが提案する「技術多様性」は、中国の「道と器」の思想を基盤に、技術を文化的宇宙論に根ざした多様な実践として再定義するアプローチとして注目されました。

3. 技術多様性の具体例と現代的応用

技術多様性の実践的可能性として、参加者からは具体例が多数挙げられました。ホイが参照する歴史的例として、中国の都江堰が議論されました。都江堰は、紀元前256年頃に建設された灌漑システムで、岷江の流れを活かし、洪水防止と農地供給を両立させます。西洋のコンクリートダムが自然を支配するのに対し、都江堰は自然素材(竹、石)と自然の流れ(道)を活用し、中国の「天人合一」の宇宙論を反映。ホイはこれを技術多様性の歴史的モデルとみなし、自然の調和(道)が魚嘴や飛沙堰といった統合灌漑システム(器)として具現化された例と評価します。
また、日本の木造建築も技術多様性の例として挙げられました。法隆寺や東大寺のような木造建築は、地震に対応した柔軟な構造と自然素材(木材)を使用。西洋の石造建築(剛性重視)とは異なり、日本の建築は神道や仏教の自然共生の宇宙論に基づき、環境に適応します。釘を使わない組み立て技術(仕口・継手)は、関係性を重視する技術実践を象徴しています。
現代の例としては、日本のロボット技術(例:介護ロボット「パロ」)が、自然や人間との共生を重視する技術多様性のモデルとして議論されました。「AIが自然と共生する」未来のイメージも提案され、たとえば環境モニタリングAIが自然のサイクルに適応する可能性が検討されました。また、日本の民芸(伝統工芸)がローカルな技術実践として取り上げられ、グローバルな標準化に対抗する文化的価値が再評価されました。

4. 技術多様性の課題と参加者の疑問

技術多様性の実践には課題も浮かび上がりました。京都学派が政治的誤謬に陥った歴史を繰り返さないためにはどうすべきか、との問いが投げかけられ、「政治的な誤謬を繰り返す」リスクが議論されました。また、ホイの「宇宙技芸」が抽象的すぎる側面を持ち、「形而上的な技術はリアルか」との疑問も出ました。グローバルな技術標準とローカルな技術実践のバランス(「外部性⇄内部性」)をどう取るかも大きな課題として挙げられ、技術(Technics)とエンジニアリング(Engineering)の対立が議論されました。
さらに、参加者から次のような疑問が寄せられました。「とはいえ、実際には車社会や支払い決済の画一化の力が強すぎて、ハイデガーのいう『ゲシュテル』の力が強すぎる。技術多様性や宇宙技芸を唱えても無力ではないか?」これに対し、参加者間で以下のような回答が共有されました。「確かに画一化の力は強いが、そのような多様性を擁護する理論がないと、ますます画一化の力が強まるばかりだ。技術多様性は、現実の圧力に対抗する思想的基盤を提供し、小さなローカルな実践から変革を始める第一歩となる」。この意見は、ホイの思想が現実的な抵抗のきっかけとなりうるとの希望を参加者に与えました。

5. 参加者の気づきと今後の展望

対話を通じて、参加者は技術を単なる道具ではなく、人間と自然、文化的価値を結びつける実践として捉える視点を共有しました。ホイの「技術多様性」は、西田の「近代の超克」の失敗を批判的に継承しつつ、現代の環境危機や文化的均質化に対抗する新たな道を示す可能性を感じさせました。AIと自然の共生、日本の伝統技術の再評価など、身近な例から技術の未来を想像するプロセスは、参加者に哲学の実践的意義を実感させました。他方で、哲学の視点では抽象性をぬぐい切れずより一層の具体的な深堀が必要であるとの認識も共有されました。

今回の哲学カフェは、ユク・ホイの思想を通じて、技術の未来を多様な視点から考える貴重な機会となりました。参加者の皆様のご協力に感謝し、次回の対話も楽しみにしています。

【活動報告】第81回哲学カフェ「生きがいと善の研究、その可能性と限界について」2025/3/23

3/23(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名、オンライン3名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。下記が概要となります。

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議論の主要内容

1. 生きがいと哲学的探求

  • 生きがいと支え:生きがいとは何か、それをどのように見出すのかが議論の中心でした。生きがいは単なる幸福や満足感ではなく、深い内面的な動機や存在意義に関わるものとされました。
  • 西田幾多郎の哲学:西田幾多郎の思想が参照され、特に「純粋経験」や「絶対無の場所」が生きがいを考える上で重要な概念として取り上げられました。
  • 純粋経験:純粋経験は単なるフロー体験(没入状態)とは異なり、一切の判断や概念化が排除された直接的な経験を指します。西田の哲学では、この純粋経験が真実の認識の基盤とされています。
  • 絶対無の場所:これは社会的な属性(職業、地位、役割など)や、さらには絶望や悲しみといった感情すらも否定された場所です。自己や世界を根本から見直すための哲学的な基盤として提示されました。
  • 生きがいと絶対無:生きがいは、この「絶対無」の状態から新たに生まれる可能性があるのではないか、という問いが投げかけられました。

2. 哲学の動機とグリーフケア

  • 哲学の動機は悲哀:哲学的探求の根底には「悲哀」があるという視点が強調されました。悲しみや喪失感が、自己や世界について深く考えるきっかけとなり、哲学的な問いを生み出すとされました。
  • グリーフケアとの関連:この悲哀を哲学的に捉えることで、グリーフケア(喪失体験への対処)に有効なアプローチが得られるのではないかと議論されました。哲学は、悲しみを単なる感情として処理するのではなく、存在の意味を再構築する手段となり得ます。

3. 行為的直観と生きがい

行為的直観:西田幾多郎の概念である「行為的直観」が取り上げられました。これは、単なる知覚や思考ではなく、行為を通じて直観的に世界を捉えることを意味します。生きがいを見出すプロセスにおいて、行為的直観が重要な役割を果たす可能性が指摘されました。

    4. 前回の振り返りと新たな問い

    新たな問い:ホワイトボードには「生きがいは本当に必要?」「動機→経験→動機(生きがいと悲哀)」「行為的直観はグリーフケアに有効?」といった問いが記されており、参加者がこれらのテーマについて深く考えを巡らせたことが伺えます。我を忘れて没頭するだけでなく、損得を忘れて大いなるものに人生をささげて善く生きようとする経験を描いた西田幾多郎の『善の研究』が一つの参考になるかもしれないと示唆しました。

    茂木健一郎と神谷美恵子の議論:前回の哲学カフェでは、茂木健一郎と神谷美恵子の視点から生きがいが議論されました。茂木は脳科学的なアプローチから、神谷は実存的な視点から生きがいを捉えており、これが今回の議論の土台となりました。

    京都学派の実践的失敗と戦後批判

    一方で、西田幾多郎とその弟子たちの京都学派の「近代の超克」議論は、実践的な面で大きな失敗を犯し、戦後に厳しい批判を受けることとなりました。以下にその点を整理します。

    1.戦争の現実と政治的権力闘争の無視

    • 京都学派の思想家たちは、「近代の超克」を理論的に追求する中で、戦争の現実や政治的な権力闘争の激しさを十分に考慮しませんでした。たとえば、1940年代の日本は、軍国主義が台頭し、太平洋戦争へと突き進む時期であり、思想的な議論が現実の政治状況と乖離していました。
    • 彼らの議論は、戦争を正当化するイデオロギーとして利用される危険性を持っていました。たとえば、「近代の超克」シンポジウムでの発言は、軍部や国家主義的な勢力によって、日本のアジア支配を正当化するプロパガンダとして解釈されることがありました。

    2.世間知らずの議論

    • 京都学派の思想家たちは、大学というアカデミックな環境で理論を展開しており、現実の社会状況や政治的な力学に対する理解が不足していました。たとえば、西田の「絶対無の場所」や「行為的直観」は、哲学的には深い洞察を提供しましたが、戦時下の日本社会でどのように実践されるべきかについての具体的な指針を示すことはできませんでした。
    • この「世間知らず」な姿勢は、戦後の批判において、「現実逃避的」「観念的すぎる」と指摘される要因となりました。

    3.戦後の批判

    • 戦後、京都学派は「戦争協力」の責任を問われることとなりました。たとえば、「近代の超克」シンポジウムでの議論が、軍国主義的なイデオロギーを間接的に支持したと解釈され、戦後のリベラルな知識人やマルクス主義者から厳しく批判されました。
    • 特に、西田の弟子である高坂正顕や西谷啓治は、戦時中の発言や著作が国家主義的な思想と結びついたとして、戦後責任を追及されました。西田自身は直接的な政治的発言を避けていましたが、彼の思想が戦争を正当化する文脈で利用されたことに対する批判は免れませんでした。
    • 戦後の日本では、京都学派の思想は「時代錯誤的」「非現実的」と見なされ、一時的に影響力を失いました。戦後日本の知識人は、民主主義や個人主義を重視する方向にシフトし、京都学派の東洋的な精神性や「近代の超克」議論は時代にそぐわないと判断されました。

    理論と実践の乖離

    • 京都学派の思想は、理論的には近代を超克する可能性を示しましたが、それを現実の社会や政治に適用する具体的な方法論を欠いていました。たとえば、「絶対無の場所」から新たな生きがいや社会秩序を生み出すプロセスは、哲学的には魅力的でしたが、戦時下の混乱や戦後の復興期において実践的な指針とはなり得ませんでした。
    • この理論と実践の乖離が、京都学派の実践的失敗の核心的な要因となりました。

      次回の哲学カフェへの展望

      西田幾多郎と京都学派挑んだ「近代の超克」は、西洋近代の普遍主義や二元論を超えようとして、特に「純粋経験」や「場所の論理」は、人間と世界の新たな関係性を示唆する壮大な試みでした。しかし、戦時の政治的現実に飲み込まれ、大東亜共栄圏のような国家主義に利用されたことで、その理想は挫折に終わりました。この「超克」の困難さは、単なる過去の失敗ではなく、近代という巨大な枠組みを批判的に見つめ直す私たちへの重い課題として残っています。どこでつまずき、どうすればその先へ進めるのか──。

      次回の哲学カフェでは、現代の技術哲学者ユク・ホイが、この「近代の超克」の複雑な遺産にどう向き合い、批判的に継承しようとしているのかを探ります。ホイの提唱する「宇宙技芸」は、技術を西洋の単一な進歩観や効率至上主義から解き放ち、各文化の宇宙論──たとえば日本の自然との共生や中国の「道と器」の思想──に根ざした多様な実践として再定義します。西田が形而上学的な思索で超克を夢見たのに対し、ホイはスマートフォンやAIが支配するデジタル社会、環境危機といった現実を直視し、技術の未来に具体的な道筋を描こうとしています。彼の視点は、近代の失敗を繰り返さず、私たちに何を問いかけているのか。たとえば、日本の伝統的な木造建築や、中国のWeChatが示すデジタル文化の違いをヒントに、技術の均質化に抗うことは本当に可能なのか──そんな問いを一緒に考えてみる予定です。

      ぜひご参加ください。

      【活動報告】第80回哲学カフェ「IKIGAIとは何か?」2025/2/16

      2/16(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名、オンライン2名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。下記が概要となります。

      当日の会場の様子

      生きがいを巡る哲学カフェ:働き方改革とすき間バイトの影響、そして深まる議論

      「生きがい」について率直な意見を交わしました。今回は、現代社会における働き方改革やすき間バイトが「生きがい」に与える影響についても議論が展開されました。さらに、実際にすき間バイトを経験された60代の方の体験談を伺うこともでき、議論はより深まりました。議論の中では、「重い生きがい」と「軽い生きがい」の概念や、それぞれの代表的な論者である神谷美恵子氏と茂木健一郎氏の生きがい論についても検討が加えられました。

      西洋と日本の労働観から探る「生きがい」の概念

      前回のトッドの家族人類学においても論じられた、西洋と日本の労働観の違いからファシリテーターは説明しました。

      西洋では、プロテスタントの思想が根強く残り、「労働は罪の償いであり、資本の蓄積こそ救いにつながる」という考え方が存在します。一方、日本では「会社で貢献することが生きがい」という風潮が色濃く残っています。

      同じ「労働」という行為でも、その捉え方は文化によって大きく異なることが分かります。

      世界におけるIKIGAIの流行、そして茂木健一郎氏と神谷美恵子氏の生きがい論

      ファシリテーターはその次に、ブルーゾーンや長寿研究など、世界で流行するIKIGAI論の動向と、それを受けて日本人の立場で生きがい論をまとめた茂木健一郎氏の生きがい論と、古典的な生きがい論である神谷美恵子氏の生きがい論を紹介しました。

      多様な生きがい、そして見つけ方

      これを受けて、生きがいには「重い生きがい」と「軽い生きがい」があるのではないかという意見が出ました。

      「重い生きがい」とは、人生をかけるような目標や使命のこと。神谷美恵子氏の生きがい論がこれに該当すると考えられます。

      一方「軽い生きがい」とは、日々の生活の中で感じる小さな喜びや楽しみのこと。茂木健一郎氏の生きがい論がこれに該当すると考えられます。

      生きがいの種類は一つではなく、人によって、また時期によって変化するものであることが示唆されました。

      これらのキーワードは、生きがいを深く探求するためのヒントになるかもしれません。

      「重い生きがい」と「軽い生きがい」:それぞれの相違点と共通点

      議論の中で、「重い生きがい」と「軽い生きがい」の相違点について検討が加えられました。

      重い生きがい

      • 人生をかけた目標や使命
      • 社会貢献や自己実現
      • 芸術・文学・宗教・哲学などで精神世界を深める

      軽い生きがい

      • 日々の小さな喜びや楽しみ
      • フロー体験
      • 小さな楽しみに没頭して無我夢中になる

      それぞれの違いに対し、共通点として主体的に探求することが挙げられました。哲学的に深めるとするならば、我を忘れて没頭するだけでなく、損得を忘れて大いなるものに人生をささげて善く生きようとする経験を描いた西田幾多郎の『善の研究』が一つの参考になるかもしれないと示唆しました。

      当日のホワイトボード

      働き方改革やすき間バイトが「生きがい」に与える影響

      近年、働き方改革やすき間バイトといった新しい働き方が登場しています。これらの働き方は、「生きがい」にどのような影響を与えるのでしょうか?

      プラス面

      • 自由な時間が増えることで、自分の本当にやりたいことを見つけやすくなる。
      • 様々な仕事を経験することで、自分の才能や興味関心を発見できる。
      • 柔軟な働き方によって、仕事とプライベートのバランスを取りやすくなる。

      マイナス面

      • 非正規雇用や不安定な働き方によって、将来への不安を感じやすくなる。
      • 働く時間が減れば仕事の流れ全体が効率化されて、試行錯誤する時間が減らされるようになり、仕事の面白味が感じられなくなる傾向がある。
      • 労働量が減ると労働の質が下がる感じがする。
      • 孤独感や孤立感を感じやすくなる。

      個人次第という意見も

      働き方改革やすき間バイトが「生きがい」に与える影響は、個人によって異なると考えられます。

      例えば、

      • 自分のペースで働きたい人にとっては、自由な時間が増えることで生きがいを感じやすくなるかもしれません。
      • 一つの仕事を長く続けたい人にとっては、非正規雇用や不安定な働き方は不安要素となるかもしれません。

      実際にすき間バイトを経験された方の体験談

      今回は、実際にすき間バイトを経験された60代の方の体験談を伺うことができました。

      その方は、定年退職後、時間を持て余す傾向があったが、働くことによって世の中の人とかかわる喜びを感じるようになり、ついに農繫期にすき間バイトを始めたところ、様々な人と出会い、新しい経験をすることができたと言います。

      「すき間バイトを通じて、人生観や職業観が変わった」と、その方は語っていました。

      議論のまとめと今後の展望

      IKIGAIを深く理解するためには、重い生きがいも軽い生きがいも共通して、無我夢中でありながらも、滅私奉公になっては生きがいが失われるので主体性も大事だという点が浮かび上がってきました。

      その相反関係を紐解くためには、西田幾多郎の『善の研究』にある純粋経験が参考になるのではないかとファシリテーターが提案したところから、次回はそのテーマで哲学カフェを開催することになりました。