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2024/3/17 当日の風景

【活動報告】第68回哲学カフェ×ミュージアム「ケアの倫理とは何か」2024/3/17

3/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「ケアの倫理とは何か」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地7名、オンライン参加1名での開催となりました。曇天の空模様でしたが、前回と同じ数の方が現地を訪れてくださいました。

2024/3/17 当日の風景
2024/3/17 当日の風景

前々回の陰謀論で、カール・ポパーが反証可能性の概念を提起していましたが、そのルーツにカントの批判哲学があることを紹介しました。そのカント哲学で陰謀論がはびこる現代の問題を解決できるのかと思いきや、カントが想定する自己決定権のある主体はそもそも非現実的な存在ではないかという批判が「ケアの倫理」の側からあることを紹介しました。つまり、そもそもその自立した主体は誰が世話して育てたのかという問いがあるわけです。

第一部ではにこれまでの議論の経緯をおさらいした後に、参考図書として事前に紹介した岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書)に則って「ケアの倫理」の考え方を紹介しました。キャロル・キリガンが切り開いた「正義の倫理・ケアの倫理」という地平があり、それは二項対立の関係にあるわけではないものの、正義の倫理が持つ男性的な「理性・自己・心・文化」という特性に対して、ケアの倫理が持つ女性的な「感性・関係・身体・自然本性」という特性を打ち出して、その後者の要素がいかにこれまでの近代文明においてないがしろにされていたかという点が議論となってることを説明しました。

Who cares? (誰がケアするのか)という英語が「知ったこっちゃない」という反語で利用されるのが象徴的ですが、そもそも自立した近代的自我というのは誰もがケアされて育てられてきたわけで、「正義の倫理」の存立基盤が「ケアの倫理」にあるといっても過言ではないわけです。それに対して、ケアの倫理の要素が少なすぎるという点が議論の出発点となります。

思想良心の自由を旨とする近代的自我、つまり正義の倫理に立脚して近代文明が組み立てられているわけで、ケアの倫理の要素を近代文明に組み込むことは近代文明の改革にもなるわけです。『ケアの倫理』の筆者は安全保障や気候正義においてケアの倫理が革新をもたらす点を紹介していました。確かに、ケアと暴力は両立しないですし、地球環境が厳しくなるとケアが困難になります。また、生産力に過剰に資源を傾斜した経済運営が、ケアに資源を分配することで地球環境に負荷がかからなくなることも想定できます。

『ケアの倫理』に記載はありませんでしたが、私が補ったのは現代哲学との関連です。つまり、ハイデガーの哲学において主体から世界内存在への転換が見られましたが、ハイデガーは世界内存在の特徴として「気遣い(care)」を挙げたことが特筆されます。世界に対峙する自己ではなくて、世界のただなかであれこれとケアする存在としての人間像が『ケアの倫理』に先行して考えられていたことも必要な知識として補いました。

また、ケアの倫理の具体的な社会的実装として参加所得としてのベーシックインカムが一つとして挙げられることも紹介しました。無条件支給がベーシックインカムの特徴ではあり、それに反することになりますが、生産労働からケア労働への転換を特徴づける上では子育てや介護などのケア労働に限定して支給することがベーシックインカムの導入としては合意が得られやすいと言えます。山森亮『ベーシックインカム入門』(光文社新書)において、1960~70年代のベーシックインカムを求める運動がボリュームを割いて紹介されています。その運動主体が家事・ケア労働者であったことが注目に値します。その原初の精神に還るという点でも参加所得としてのベーシックインカムを打ち出すことは社会に良い影響を与えます。

最後に、『ケアの倫理』では記載がなかった移民の問題についても触れました。欧米では女性がケア労働から解放されるとともに、それが移民の仕事となり、分断の火種となっています。ジェンダー平等の優等生である北欧でも事情は同様で、ケア労働に携わる社会的な包摂が課題となっている点も紹介しました。ただ、移民の問題は複雑なので、単体で取り上げても時間が足りないくらいなので、また後日改めて議題とします。

2024/3/17 ホワイトボード
2024/3/17 ホワイトボード

以上の点を説明した後で、質問や議論は盛り上がりました。とりわけ、女性の方やデイサービスの経営に携わっている方からの現場の意見にはとても説得力がありました。そもそも哲学自体が男性のつくりあげたものであって、そんな哲学にケア労働の価値を考えることはできないという意見があり、ぐうの音も出ませんでした。また、意志の自律と生活の自立は分けて考えるべきであり、ケアのお世話になっても意志の自律は守られる可能性はあるのではないかと言うケアの現場の方からの意見はとても参考になりました。

また、ANT(Actor Network Theory)の提案もありました。主体・客体関係からの脱却と言う提案で知られた理論ですが、ケアする・される関係のネットワークの総体としてケアの倫理をとらえ直すという可能性はあるかもしれません。

次回の哲学カフェは、ケアの倫理の社会的実装を具体的に考える一環として、そして近代文明の転換を図る一助として、ベーシックインカムを補助線に考えてみます。

【活動報告】第67回哲学カフェ×ミュージアム「情熱と冷静の間のカント哲学!?」2024/2/18

2/18(日)にFactory Art Museum Toyama において「情熱と冷静の間のカント哲学!?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地7名、オンライン参加4名での開催となりました。季節外れの陽光に恵まれて現地参加者も多かったですが、オンライン参加も久々に3名以上になり、その中には初参加の方もいらっしゃいました。

前回の陰謀論で、カール・ポパーが反証可能性の概念を提起していましたが、そのルーツにカントの批判哲学があることを紹介しましたので、今回はそのカントを深堀することなりました。

とはいえ、カントは近世哲学の偉大な哲学者で、その影響は現代も大きな影響を与えていて、その内容をわずか3時間で論じることにそもそもの無理があるので、個別のテーマは別の機会に論じることとして、今回はカントの問題意識と現代に与える影響、そしてそれに対する批判的な考えを紹介しました。

物自体は4つのアンチノミーに見られるように理性は錯誤を犯してしまうため認識することができず、実践の対象であらざるをえないことをごく簡単に紹介して、神や自由意志の問題は実践理性批判において展開されたことを話しました。そして、自己決定権や思想良心の自由など私たちに馴染みのある概念はカントに由来する点も説明しました。そこから、『永遠平和のために』に見られるような国家の尊厳と自己の尊厳のアナロジーに敷衍されて、国家における民族自決権につながり、その主権を持った国家同士が連合するというカントの着想が現代の国際連合につながっている点も説明しました。

『啓蒙とは何か』においては「自分で頭で考える」ことが啓蒙につながるということがテーマになっていますが、その点もカントの批判哲学から敷衍されていることが説明できるので、カント哲学の一貫性をざっくりとご理解いただくように努めました。

難しい話をしたので議論が盛り上がらないのではないかと想定していましたが、豈図らんや、質疑応答からかなり突っ込んだやり取りがあり、事前に100分de名著『純粋理性批判』の解説本を予習した方からも、フッサールの現象学との比較についてなどかなりディープな応答もありました。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/98_kant/index.html

カントの場合は「良心に基づいて自己決定する主体」が前提となっていますが、フッサールにおいては、特に晩年において生活世界であれこれ気遣う受動的な人が前提となっていて、そこにカントが把握できなかった人間像を見出すことができるわけです。

分断やポピュリズム、そしてパンデミックから紛争に至るまで、現代社会が抱える様々な問題がありますが、問題を解決するためには人間像の転換が必要となります。現象学の考えはその一つの候補となりますが、次回で提案したいのは「ケアの倫理」です。つまり、ケアする存在としての人間像です。自己決定する主体ではなく、ケアする/される存在としての人間です。特に、フェミニズムの視点からの研究が充実しています。

カントが残した功績を評価しつつ、カントもまた反証可能性にさらされる存在ですので、「ケアの倫理」批判的に継承していくこととなります。

Well Being

【活動報告】第66回哲学カフェ×ミュージアム「陰謀論とは何か?」2024/1/21

1/21(日)にFactory Art Museum Toyama において「陰謀論とは何か?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地5名、オンライン参加1名での開催となりました。雨降る一日でしたが、現地の参加者に恵まれました。

能登半島での震災が起こってから初めての哲学カフェの開催になりました。多かれ少なかれ、それぞれ被災者の一面もありますので、最初はそれぞれの状況報告を聴くことから始めました。

その後に、陰謀論についての素朴な感想と意見を話し合うことから始めました。今日の主要テーマを「陰謀論は荒唐無稽だけれども、陰謀は実在する」と設定するつもりでしたが、早々にその点を指摘してくださる方がいて、進行役の都合としては非常に進めやすい哲学カフェの立ち上がりとなりました。

今回はカール・ポパー『開かれた社会とその敵』における陰謀論の定義を紹介して、その核にある反証可能性の概念について説明しました。反証可能性とは、仮説は常に批判に開かれていて、反証されたらその仮説は放棄することを指していますが、それが科学の営みの本質とされています。

ポパーによると陰謀は実在するが、そのプロジェクトの規模が大きいためにめったに成功しないとされています。しかし、陰謀が実在することは間違いないので、陰謀を暴くアプローチとしては無知学の成果を紹介しました。ナオミ・オレスケスの『懐疑の商人』の仕事が有名ですが、地球温暖化懐疑論は石油化学企業によってつくられたものであることが近年広く知られるようになりました。

しかし、その証明は困難なので、陰謀を暴くことと陰謀論を語ることの区別はとても難しいわけです。信念をもとに行動することが重要ですが、常に反証可能性に開かれていることが前提になるといった考えになると見解を示しました。

最後に、身内が陰謀論にはまったらどう対応しますか?という問いを投げかけましたが、深入りしないというのが共通見解のようでした。近年はコロナ禍におけるワクチン接種の問題がありましたので、その時の経験をもとに考えを深めていました。

私は、カント哲学が今もなお有効だと考えています。ポパーもカント哲学に大いに依拠しています。その点次回の哲学カフェで深めていくつもりです。