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ブルーステートとレッドステート

【活動報告】第71回哲学カフェ×ミュージアム「反知性主義とは何か」2024/6/16

6/16(日)にFactory Art Museum Toyama において「反知性主義とは何か」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地4名、オンライン参加1名での開催となりました。

前回は「アメリカニズムとは何か」について議論をしました。かなり広範なテーマであったので、せっかく興味を持っていただいたのに分かりづらい面が多くあったように思いました。そこで、その中でも最もヴィヴィッドな特性である「反知性主義」というテーマをもって対話することとしました。

何と言っても反知性主義のコアにあるのはプロテスタンティズムです。キリスト教の起こりはイエスがユダヤ教の権威に異議申し立てをしたことですし、プロテスタンティズムの起こりもルターがカトリックの権威に異議申し立てをしたことです。そして、アメリカ植民の起こりもピューリタンが英国教会という権威からの独立ですし、アメリカ合衆国の独立もその延長線上にあります。

権威に対する平等主義が根底にあり、日本で乱用される「反知性主義」という言葉の権威主義的な使い方とは真っ向から対立するわけです。つまり、反知性主義とは、反知識人主義と言ってもいいわけです。

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』で広く周知されるようになりましたが、近年この概念に注目が集まるようになったのは何と言ってもトランプ現象によるところが大きいでしょう。荒唐無稽な陰謀論に耽溺するだけでなく、アメリカ議会に乱入して武力行使を行う過激な集団がなぜ大きな勢力となって、トランプ現象が生み出されるのかという疑問があるのでしょう。しかも、科学技術の最先端をリードするアメリカが、なぜ相反するような大きな政治勢力を生み出すことへの疑念が生まれるのはもっともなことだと思います。

しかし興味深いのは、この両面がプロテスタンティズムの現れなわけです。例えば、ニュートンは敬虔なキリスト教徒であり、かつ宇宙の物理法則を解明する科学者でもありました。また、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも説かれているように、資本の拡大が信仰の証であったりもするわけです。科学もビジネスも成立の当初はその両面が緊密に結びついてたのが時代が進むごとに分断してしまうという訳です。

ブルーステイト(民主党支持州)とレッドステイト(共和党支持州)の話もしましたが、この両面がアメリカニズムの現れであるわけですが、今は深い分断の溝を生んでいます。

分断を生んでいる一つの代表例としてキリスト教の中核をなす創造論と、それに真っ向から歯向かう科学的な進化論との対立についての議論も行いました。私たち日本人にとっては進化論がなじみのあるものなので、科学技術の最先端を走るアメリカ合衆国で創造論が大きなプレゼンスを生んでいることに理解が及びません。ましてや報道されるのが、いわばキラキラしたアメリカばかりなのでなおのことなじみがありません。

それもあってか、この議論がなかなか活性化しませんでした。そこで角度を変えて、私たち日本人がどうアメリカニズムや反知性主義をとらえ直すのかという議論の仕方を行いました。日本人論はさすがに盛り上がりますが、やはり、アメリカニズムのベールがなかなか晴れませんでした。所詮は教育の問題じゃないか、どうせ日本人にはキリスト教の考え方は理解できないのではないか、日本人には寛容の精神があるが、キリスト教は偏狭であるなどなど。

そこで、一度アメリカ論からは距離を置いて、私たちにとって親しみのあると思われる日本人論を批判的に行うことで、客観的な視座を得ながらもう一度アメリカ論に取り組むということにしました。次回は、「日本教とは何か?」~ここが変だよ日本人~と題して、日本人論について議論を深めます。

【活動報告】第69回哲学カフェ×ミュージアム「ケアの倫理とベーシックインカム」2024/4/21

4/21(日)にFactory Art Museum Toyama において「ケアの倫理と」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地4名、オンライン参加4名での開催となりました。

前回は岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書)に則って「ケアの倫理」の考え方を紹介しました。ケアの倫理は「主体性」という近代文明の基礎を”Who cares?”と問いかけることで根本的に揺るがす可能性はあるものの、その社会的実装を具体的に考えてみたいとして、そして近代文明の転換を図る一助として、ベーシックインカムを補助線に考えてみることとしました。

導入の最初に、そもそも奈良時代の日本において均田制というベーシックキャピタル(基礎資本)という制度が運用されていたことを説明して、それほど人類に無縁の制度ではないことを投げかけました。アメリカ合衆国独立を主導した思想家であるトマス・ペインももまた、ベーシックキャピタルのような制度の導入を訴えていて、ベーシックインカムを歴史上初めて訴えたとされることが多いです。

ベーシックインカム(BI)の定義として、一定金額が定期的に全ての個人に現金が支給されるというのが近年の主流となっていますが、その定義でのBIは1960年代の後半のアメリカ合衆国において、ケア労働と生産労働の両方を担っているシングルマザーがBIを求める運動を起こして、それがキング牧師を突き動かしたという歴史があります。そもそもの起こりとしてケア労働とBIの結びつきは深く、ケア労働とマッチするのではという提案を行いました。

そもそも、アメリカ合衆国ではニクソン米大統領の時期に負の所得税という形でBIを導入しようとした経緯があったことを紹介しました。

負の所得税(フノショトクゼイ)とは? 意味や使い方 – コトバンク

米アラスカ州でアラスカ永久基金というファンドが資源をもとに運用した結果得られた利益を州民に等しく分配するという部分的BIの仕組みが1970年代以来ずっと継続されており、また、かつてはカナダのドーフィンという小さな自治体で数年間BIの実験がなされたことがあり、それで仕事を辞めた人はおらず、辞めた人も学業に専念したり、専業主婦になって子育てに専念したりしたというポジティブな結果が得られたという事実も共有しました。

Alaska Department of Revenue – Permanent Fund Dividend

Alaska Permanent Fund – WikipediaAlaska Permanent Fund – Wikipedia

オンタリオ州ベーシック・インカムの実験: MINCOME の影響

このような事実を紹介してもなお、BIを導入すると人は働かなくなるのではないかという誰もが最初に抱く根強い疑問が起こりました。一斉に人が働かなくなるのは非現実的な想定であるとはしても、一定数は働かなくなって社会が機能しなくなる可能性があるのではないかという疑問です。これに対しては、そもそもケア労働が極めて低賃金に抑えられている点を踏まえると、ケア労働者に対する生活の底上げとして機能はするけれども、例えば月額5万円程度の上乗せで仕事を辞めるということは非現実的な想定であろうと回答しました。

確かに、いきなり純粋な定義のBIを導入すると混乱が発生する可能性もあるので、まずは子育てや介護、ボランティア活動などケア労働に限ってBIを支給するという参加所得を導入したらどうかという提案を行いました。

それでも、ふんだんに年金が支給されている家庭に依存する孫が堕落している事例に話題が広がってしまうなど、シングルマザーがBIを求めたという精神に対する理解が到底及ばず時間切りになってしまいました。BIは移民に対して支給するのかという難問が控えていて、それに対する議論は想定していたのですが、まさか入り口でこんなに躓いてしまうとは想定外でした。

「働かざる者食うべからず」という近代文明の労働観が根強く私たちを支配していて、前回話題となったようなケア労働への転換、ましてや文明の転換というところまで私たちの精神は変容するのは厳しいのだなと痛感しました。

次回は、原初のBIの精神にアプローチするために、角度を変えてBI発祥の地であるアメリカ合衆国をテーマに迫ってみようと試みています。テーマは「アメリカニズムとは何か?~トランプ氏はなぜ支持を受けるのか~」として、米大統領選への準備も兼ねて実施いたします。

2024/3/17 当日の風景

【活動報告】第68回哲学カフェ×ミュージアム「ケアの倫理とは何か」2024/3/17

3/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「ケアの倫理とは何か」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地7名、オンライン参加1名での開催となりました。曇天の空模様でしたが、前回と同じ数の方が現地を訪れてくださいました。

2024/3/17 当日の風景
2024/3/17 当日の風景

前々回の陰謀論で、カール・ポパーが反証可能性の概念を提起していましたが、そのルーツにカントの批判哲学があることを紹介しました。そのカント哲学で陰謀論がはびこる現代の問題を解決できるのかと思いきや、カントが想定する自己決定権のある主体はそもそも非現実的な存在ではないかという批判が「ケアの倫理」の側からあることを紹介しました。つまり、そもそもその自立した主体は誰が世話して育てたのかという問いがあるわけです。

第一部ではにこれまでの議論の経緯をおさらいした後に、参考図書として事前に紹介した岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書)に則って「ケアの倫理」の考え方を紹介しました。キャロル・キリガンが切り開いた「正義の倫理・ケアの倫理」という地平があり、それは二項対立の関係にあるわけではないものの、正義の倫理が持つ男性的な「理性・自己・心・文化」という特性に対して、ケアの倫理が持つ女性的な「感性・関係・身体・自然本性」という特性を打ち出して、その後者の要素がいかにこれまでの近代文明においてないがしろにされていたかという点が議論となってることを説明しました。

Who cares? (誰がケアするのか)という英語が「知ったこっちゃない」という反語で利用されるのが象徴的ですが、そもそも自立した近代的自我というのは誰もがケアされて育てられてきたわけで、「正義の倫理」の存立基盤が「ケアの倫理」にあるといっても過言ではないわけです。それに対して、ケアの倫理の要素が少なすぎるという点が議論の出発点となります。

思想良心の自由を旨とする近代的自我、つまり正義の倫理に立脚して近代文明が組み立てられているわけで、ケアの倫理の要素を近代文明に組み込むことは近代文明の改革にもなるわけです。『ケアの倫理』の筆者は安全保障や気候正義においてケアの倫理が革新をもたらす点を紹介していました。確かに、ケアと暴力は両立しないですし、地球環境が厳しくなるとケアが困難になります。また、生産力に過剰に資源を傾斜した経済運営が、ケアに資源を分配することで地球環境に負荷がかからなくなることも想定できます。

『ケアの倫理』に記載はありませんでしたが、私が補ったのは現代哲学との関連です。つまり、ハイデガーの哲学において主体から世界内存在への転換が見られましたが、ハイデガーは世界内存在の特徴として「気遣い(care)」を挙げたことが特筆されます。世界に対峙する自己ではなくて、世界のただなかであれこれとケアする存在としての人間像が『ケアの倫理』に先行して考えられていたことも必要な知識として補いました。

また、ケアの倫理の具体的な社会的実装として参加所得としてのベーシックインカムが一つとして挙げられることも紹介しました。無条件支給がベーシックインカムの特徴ではあり、それに反することになりますが、生産労働からケア労働への転換を特徴づける上では子育てや介護などのケア労働に限定して支給することがベーシックインカムの導入としては合意が得られやすいと言えます。山森亮『ベーシックインカム入門』(光文社新書)において、1960~70年代のベーシックインカムを求める運動がボリュームを割いて紹介されています。その運動主体が家事・ケア労働者であったことが注目に値します。その原初の精神に還るという点でも参加所得としてのベーシックインカムを打ち出すことは社会に良い影響を与えます。

最後に、『ケアの倫理』では記載がなかった移民の問題についても触れました。欧米では女性がケア労働から解放されるとともに、それが移民の仕事となり、分断の火種となっています。ジェンダー平等の優等生である北欧でも事情は同様で、ケア労働に携わる社会的な包摂が課題となっている点も紹介しました。ただ、移民の問題は複雑なので、単体で取り上げても時間が足りないくらいなので、また後日改めて議題とします。

2024/3/17 ホワイトボード
2024/3/17 ホワイトボード

以上の点を説明した後で、質問や議論は盛り上がりました。とりわけ、女性の方やデイサービスの経営に携わっている方からの現場の意見にはとても説得力がありました。そもそも哲学自体が男性のつくりあげたものであって、そんな哲学にケア労働の価値を考えることはできないという意見があり、ぐうの音も出ませんでした。また、意志の自律と生活の自立は分けて考えるべきであり、ケアのお世話になっても意志の自律は守られる可能性はあるのではないかと言うケアの現場の方からの意見はとても参考になりました。

また、ANT(Actor Network Theory)の提案もありました。主体・客体関係からの脱却と言う提案で知られた理論ですが、ケアする・される関係のネットワークの総体としてケアの倫理をとらえ直すという可能性はあるかもしれません。

次回の哲学カフェは、ケアの倫理の社会的実装を具体的に考える一環として、そして近代文明の転換を図る一助として、ベーシックインカムを補助線に考えてみます。