11/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「もしプラトンが政治家になったら?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。
現地4名、オンライン参加1名での開催となりました。
導入として、プラトンの善のイデアと哲人政治の構想を概観しました。善のイデアについて、参加者は「すべての現象や価値を統合する究極の真理」としての意義を共有しました。特に『国家篇』における哲人政治(哲学者が統治する理想国家)の考えに触れ、それは政治理論と言うよりは、いかに善のイデアに基づくものであるかが共有されました。
興味深い観点として、儒教の視点からの比較儒教における「仁」や「徳治主義」とプラトンの哲人政治を比較する議論が展開されました。儒教では、善き統治者は徳を通じて社会を導くべきとされており、これは哲人政治の理念と通じる部分があると指摘されました。
一方で、儒教の「具体的な道徳規範」と仁や礼といった関係性を重んじる考え方と、プラトンの抽象的な善のイデアの違いが議論を活発にしました。
カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』におけるプラトン批判にも触れました。ポパーは哲人政治を「全体主義や陰謀論の温床」と見なしており、その観点から「善のイデア」や哲人政治の危険性を再評価しました。参加者の間では「善のイデアは権力者によって独占される危険がある」との意見もありましたが、「イデアの追求は理想を掲げる指針として重要」との反論も挙がりました。
AIは現代の哲人政治の担い手となりうるか?というトピックについても議論しました。参加者は、AIが膨大なデータを処理し客観的な判断を下せる点に注目し、「現代版の哲人」としての可能性を議論しました。AIが人間のバイアスを排除し、善を基準に政策を形成することができるかもしれないという期待が挙がりました。一方で、参加者からは「善の基準そのものを設定するのは人間であり、AIにそれを託すことには倫理的リスクが伴う」との懸念も表明されました。AIが哲学的思索や道徳的判断を行うには、人間の直感や感情に基づく理解が欠けているという指摘もありました。実際のAIの運用においてはかなり倫理のタガがはめられているところを見ると、やはり人間の倫理観が最後に必要になるのではないかという合意が得られました。
最終的に「善のイデアは現実的な政策や統治にどのように貢献できるのか?」が議論の焦点となりました。「善のイデアは実現不可能であるし独断的になる恐れはあるが、ポピュリズムや分断、情報操作が猛威を振るう現代社会においては、目指すべき理想として存在する価値がある」との意見には一定同意を得られました。
2024年は選挙イヤーであったこともあり、政治の話題を多く取り入れました。次回は2024年の締めくくりとして、SDGsを話題として場所を旧高岡大和の御旅屋セリオに移して対話を行います。