5/18(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地7名、オンライン2名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。

第1部:技術は国家に制約されるものか、グローバルに解放されたものか?
最初のセッションでは、ホワイトボードの左右にそれぞれ「技術と国家」「グローバル」というテーマが掲げられ、これらの視点から議論が展開されました。
「技術と国家」– ナショナルな文脈における技術の諸相
「技術と国家」の関連では、まず「国家」が技術にどのように関わるかが探求されました。具体例として、「大学教育」や「建築」が挙げられ、これらは「国際的な圧力を受ける」側面も持つと指摘されました。また、よりローカルな「地域ルール」や、技術開発の推進力となりうる「国家予算がつくか否か」という点も議論の対象となりました。
歴史的な言葉として「鉄は国家なり」というフレーズが引用され、基幹技術と国家の結びつきが示唆されました。さらに、{ユーザーの論理}という視点から、個々人の「関心のある系」としての「工芸」や、明確に「国家を守るための技術」としての「軍事」などが、「生き残る」という目的意識と共に論じられました。
「グローバル」な技術 – 普遍性と人間側の課題
「グローバル」な技術の側面については、その広がりを示す要素として「ネットワーク」「国際学会」がキーワードとして挙げられました。「技術はそもそも文化の枠にしばられない」そして「技術にもお金にも国境はない」といった意見が出され、技術の持つ本質的な越境性や普遍性への期待が示されました。
一方で、このような技術のグローバルな展開に対して、「技術の暴走?」という懸念も提示されました。しかし、この問題は技術そのものよりも、むしろ「使う側の暴走」に起因するのではないか、という議論へと発展しました。
さらに踏み込んで、「技術の封印」の是非や可能性、そして「技術の中立性?」という根本的な問いが立てられました。この「技術の中立性」に関しては、単純な肯定や否定ではなく、何らかのプロセスを経て、最終的には「学問の普遍性」に繋がるという方向での考察が試みられました。
興味深い点として「特許」という事例が挙げられ、普通には国家に年貢を払うことから普遍性を目指さないと見なされがちで、実際利益の追求のために運用されがちですが、崇高な理念としては公開性という一面もあるため、ホワイトボードでは微妙な位置づけに修正されました。
第1部では、これらのホワイトボードに集約されたキーワードやフレーズを通じて、技術が国家的な文脈の中で多様な影響を受けつつも、同時にグローバルな普遍性を志向しうる複雑な性格を持つこと、そしてその利用や影響に関しては人間側の倫理や制御が問われることが確認されました。
第2部:技術に支配される私たち? それとも技術を使いこなす私たち?-ハイデガーとフィーンバーグを手がかりに-

第2部では、ホワイトボードに「技術と国家」というテーマが継続して掲げられ、その下でマルティン・ハイデガーとアンドリュー・フィーンバーグの対照的な技術観が取り上げられました。
まずハイデガーの思想について、彼の言う「ゲシュテル(総駆り立て体制)」という概念が紹介されました。これは、近代技術が人間や自然を計算可能・操作可能な対象として捉え、効率性や生産性のためにあらゆるものを動員していく体制を指します。この視点から、「原子力技術のナショナリティ」や「宇宙技術」、そして「サイバーテロリズム」といった大規模で国家的な関与の強い技術が、個人の意思を超えて社会を規定していく側面について議論されました。技術が自律的に歩き出すかのような「技術の一人歩き」という言葉も板書され、技術の持つ力に対する畏怖や懸念が共有されました。
次に、フィーンバーグの「技術の民主的合理化」という考え方が提示されました。フィーンバーグは、人間が技術を一方的に受容するのではなく、その設計や利用のあり方に対して民主的に関与し、より人間的な価値や目的に沿って技術を「制御できる」と主張します。具体例として、かつて危険視された「ボイラー」技術が安全基準の確立によって社会に受容された経緯や、フランスのオンラインシステム「Minitel」がユーザーの創造的な利用によって当初の想定を超えたコミュニケーションツールへと発展した事例、さらには児童労働を禁じることによって生産性がかえって向上した事例が挙げられ、人間が技術を主体的に制御していく可能性が探られました。
これらの思想を通じて、技術のナショナリティが、国家によるトップダウンの技術導入(ハイデガー的視点)と、市民社会からのボトムアップによる技術形成(フィーンバーグ的視点)という二つの側面で現れうることが議論されました。
第3部:創造の主体として立つ-西田幾多郎の視点から見た技術とナショナリティの未来-
最終セッションでは、日本の哲学者・西田幾多郎の思想を軸に、これまでの議論を統合し、技術とナショナリティの関係性について、そして「技術とは何か」という根源的な問いへのアプローチが試みられました。ホワイトボードにはまず、現代の市場における「需要の大小で技術を分類」する視点や、「供給」側の論理としての「プロダクトポートフォリオ」といった言葉が記され、経済合理性が技術のあり方を大きく左右する現実が確認されました。
このような状況に対し、西田幾多郎の「作られたものから作るものへ」という言葉が提示されました。これは、私たちが既存の技術や社会システム(作られたもの)に規定されるだけでなく、それらを素材として新たな価値や意味を創造していく主体(作るもの)へと転換することの重要性を示唆します。
ホワイトボードには、この思想を体現するかのように、「技術」「人間」が相互に影響を与え合う関係が描かれ、それら全体を「場所」という概念が包み込む図が示されました。さらにその外側には「絶対無の場所」という西田哲学の中心概念が記され、技術も人間も自然も、そしてそれらが織りなす具体的な「場所」(それは文化や歴史、あるいは国家というナショナリティを帯びた場でもある)も、全てはより根源的な「絶対無」において生成し、関係し合っているという深遠な世界観が提示されました。
この西田の視点から、技術のナショナリティは、単に国家による制約やグローバルな均質化の対立軸として捉えられるだけでなく、特定の「場所」において「人間」が「自然」と関わりながら「技術」を「作り」、またそれによって自らも「作られる」という、よりダイナミックで創造的なプロセスとして理解される可能性が示されました。「技術とは何か」という問いに対しても、このような人間、自然、そして場所(ナショナリティや文化を含む)との相互作用の中で絶えず生成変化していく創造的営為である、という方向性が示唆され、議論は締めくくられました。
4. 技術とは何か?

これまでのセッション(第1部:技術のナショナリティとグローバリティ、第2部:ハイデガーとフィーンバーグの技術観,、第3部:西田幾多郎の視点から見た技術とナショナリティの未来)で深められた議論を踏まえ、最終セッションでは哲学カフェの根源的な問いである「技術とは何か?」という定義に挑戦しました。ホワイトボードには、まず「技術と倫理」そして「制御可能にできるか?」という、技術の持つ力とそれに対する人間の責任を問う言葉が記され、定義を試みる上での重要な視座が確認されました。
参加者からは、「技術の定義は?」という大きな問いに対して、多様な角度からの意見が活発に提示されました。ホワイトボードに集約された主な視点は以下の通りです。
- 「自然科学・社会科学を超えた次元」を持つもの: 技術は単なる科学の応用や社会現象に留まらず、それらを超えた人間存在の根源的なあり方に関わるものとして捉えられました。
- 「人間の精神活動のあらわれ」: 技術は、人間の知性、意志、創造性といった内面的な精神活動が外部に具現化したものであるという意見が出されました。
- 「手段として限定すべき」か、あるいは「目的論を上位に置く」べきか: 技術を特定の目的を達成するための「手段」として捉える見方に対し、技術そのものが内包する、あるいは技術を用いることで達成しようとする「目的」や価値をより重視すべきではないか、という議論が交わされました。板書では、「手段として限定すべき」という意見から矢印が引かれ、その対象として「自然」への働きかけが示唆された後、それと対比されるかのように「目的論を上位に置く」という視点が提示されました。
- 「人間のあり方と渾然一体となったもの」: 技術は人間から切り離された客観的な存在ではなく、むしろ人間の生き方や社会のあり方と分かちがたく結びつき、相互に影響を与え合うものであるという認識が共有されました。
- 「与えられた制約の中での意志の実現」: 技術は、人間が持つ様々な制約(物理的、環境的、社会的など)の中で、それでもなお何かを成し遂げようとする「意志」が具体的な形をとったものである、という力強い定義も提案されました。
これらの多様な意見を交わす中で、技術が一義的に定義できる単純なものではなく、人間の存在、社会、自然、そして倫理といった広範な領域と深く関わる、多面的でダイナミックな現象であることが改めて浮き彫りになりました。今回の哲学カフェでは、この「技術とは何か?」という問いに対して最終的な単一の答えを出すことよりも、むしろ参加者一人ひとりが自身の言葉で技術を捉え直し、その本質について思索を深めるプロセスそのものに意義が見出されました。
今回の議論は、年間テーマである「私たちは日本人としてどう生きるべきか?」という問いに対しても、日本という特定の「場所」で、私たちが技術とどのように向き合い、どのような未来を「作っていく」のかを考える上で、重要な示唆を与えるものとなりました。
5. 参加者の気づきと今後の展望
今回の哲学カフェ「技術のナショナリティとは何か?」を通じて、参加者の皆さんは、技術という身近でありながらも捉えどころのないテーマに対し、多角的な視点から光を当て、その本質に迫ろうと試みました。一連のセッションを通して、以下のような気づきや今後の展望が共有されたと言えるでしょう。
まず、技術の多層性と文脈依存性への気づきです。第1部では、技術が国家による管理や戦略と結びつく側面(「鉄は国家なり」「国家予算」など)と、国境を超えて共有されるグローバルな側面(「ネットワーク」「規格統一」など)が、具体的な事例やホワイトボード上のキーワード(「生活様式」「言語」「デザイン」「技術の科学性」)を通じてマッピングされました。「便利なものは文化の壁をこえるが、しかし…」という言葉に象徴されるように、技術の普遍性とローカルな文脈における受容のされ方や意味づけの差異(「使う側の差異」)が常に存在することが確認され、技術のナショナリティが一義的ではないことへの理解が深まりました。
次に、技術に対する人間の主体的な関与の可能性と責任への自覚です。第2部におけるハイデガーの「ゲシュテル(総駆り立て体制)」という概念は、技術が人間を支配する可能性への警鐘として受け止められました。一方で、フィーンバーグの「技術の民主的合理化」という思想は、私たち人間が技術のあり方に対して主体的に関与し、「制御可能」なものへと変えていく希望を示しました。「原子力技術」や「宇宙技術」といった巨大技術から、「Minitel」や「ボイラーの安全基準」といったより身近な例まで、技術と人間の関係は固定的なものではなく、私たちの選択と行動によって変わりうるという気づきが得られました。これは、「技術の暴走?」という問いに対し、「使う側の暴走」の問題を意識することの重要性にも繋がりました。
そして、技術を人間存在の根源的な営みとして捉え直す視点の獲得です。第3部では、西田幾多郎の「作られたものから作るものへ」という言葉や、「技術」「人間」「自然」そしてそれらを包む「場所」(「絶対無の場所」を含む)という関係図が、深い示唆を与えました。技術は単なる「手段」に限定されるものではなく、「人間の精神活動のあらわれ」であり、「人間のあり方と渾然一体となったもの」、そして「与えられた制約の中での意志の実現」であるという多様な定義が試みられました。これらの議論は、技術を、自然科学や社会科学の枠を超え、人間の創造性や倫理観、そして世界との関わり方そのものを映し出す鏡として捉え直すことを促しました。
これらの気づきを踏まえ、今後の展望として、技術と私たちの関係性をより自覚的に、そして主体的に築いていくことの重要性が浮かび上がってきます。年間テーマである「私たちは日本人としてどう生きるべきか?」という問いに対しても、日本という特定の「場所」において、どのような技術的未来を「作り」、どのような価値を次世代に継承していくのか、という具体的な課題意識へと繋がるでしょう。「技術の封印」や「技術の中立性?」といった根源的な問いは、これからも私たちの社会が向き合い続けるべきテーマであり、今回の哲学カフェでの対話が、その一歩となることが期待されます。技術を単に消費するのではなく、その意味を問い、倫理的な視座を持ちながら、より良い社会の実現に向けて技術を創造的に活用していくという姿勢が、これからの私たちには求められているのかもしれません。
今回の哲学カフェが、参加者の皆さんにとって、日常の中の技術に対する新たな視点を発見し、今後の思索を深めるきっかけとなったことを願っています。