2600年の哲学史を2時間の爆速で駆け抜ける!
4月27日(日)高岡大仏のある大仏寺にて哲学カフェを開催しました。
今回のテーマはズバリ「西洋の哲学者は何を考えてきたのか?」です。
このテーマを扱う上で大きく2つの軸があり、それが「ヘレニズムとヘブライズム」です。
レジュメも見つつ、まずは当日した使用したスライドをご覧ください。
古代ギリシャはソクラテスの時代から20世紀のハイデガーに至るまで約2600年の哲学史を
2時間の超特急で新幹線で移動するがごとく見てまいりました(笑)参加者の方には哲学の
年表を整理するというワークも行っていただきましたが、時系列に沿って哲学の進展や
重要人物をマッピングしていくことで頭の中を整理する効果があったと思います。
デカルトやスピノザ、アウグスティヌスにハイデガー。「はぁ?どこの誰ぞ?」から
「ニーチェ?あぁ、あのへんの時代の人ね。」と大まかに想像できるようになります。
目的論的世界観と機械論的世界観
大まかに言うと、古代ギリシャで発展した哲学がヘレニズムです。プラトンの言う、
万物を形作る元となる「善のイデア」、アリストテレスの四原因説における目的因が
普遍的な概念としての「善」の優位性、目的論的世界観を説いています。
一方、ヘブライズムとは「光あれ」「はじめに言葉ありき」と聖書にもあるように、
まず、物事の存在が先にあります。キリスト教が普及し、神の存在証明が中世では
盛んに行われます。神の存在の確信を求め、神の作った世界を知るという動機から
自然をありのままに見つめ、対象を観察する科学が発展してきました。
やがて哲学の対象は、観察や思考を行う自分自身という存在へと向いていきます。
デカルトの「われ思う、故にわれあり」などは有名な言葉ですね。
人間の自我が客観的に世界を見つめるアプローチが機械論的世界観で、近代科学の
発展に大きく貢献しました。
やがてカントが「物自体は認識しえない」と説くように超越論的世界観が登場します。
感性的直観形式(メガネ)を通してしか物事は認識できない。すごく難しい表現ですが
モノがモノとしてそこにあるのではなく、それを認識する自分の主観があって初めて
モノがそこにあると分かるという考え方です。現代人の私達にもだいぶ馴染みやすい
アイディアではないでしょうか?こういう考えは人間の精神の領域にも入り込んで
くる絶対的な価値観が失われ、ニヒリズムが進行します。
ニーチェの「神は死んだ」というフレーズは有名ですね。
ニヒリズムと言うと、なんだか無気力で怠惰みたいな雰囲気がありますが、
本当はキリスト教道徳から解放された人間の精神が新しい価値の創造へと進んで
いくことの大切さをニーチェは主張しています。
現代の世界で善の優位性を考える意味はあるのか?
これまで見てきた通り、現代社会を生きる私達は存在論的世界観に支配されて
生きています。グローバリゼーションとは即ち西洋のヘブライズムの価値観が
世界に浸透していく過程でした。
善の優位性の思想を現代で活用できるのだろうか?
最後にこの問いを投げかけたわけですが。皆さん、すご〜くモヤッとした表情を
されて、会場はちょっと気まずい雰囲気になりました(笑)。
そうなるのも当然で、私達の頭は完全に存在論的世界観で出来上がっており、
「善なんて1人1人違うし、人それぞれじゃん。全員が納得する普遍的な回答なんて
出るわけがないじゃん」と条件反射的に話を打ち切ってしまいたくなるものです。
おそらく普遍的な回答を運営側から出すことも難しいのですが、それでもあえて
「私達の世の中、このまま存在論的世界観で行っちゃって大丈夫ですか?」という
質問に自分ならどう答えるか、考えてみるのは面白いかもしれません。
古今東西の哲学者はモヤモヤがスッキリする答えを言ってはくれないのですが、
たぶんヒントくらいは出してくれるでしょう。