11/20(日)にFactory Art Museum Toyama において「人類は賢くなれるのか?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。
現地参加者7名、オンラインでの参加者2名でした。
第1部では、ファシリテータの野末から基礎知識の共有を行いました。
底本としたカントの『啓蒙とは何か』をその哲学的背景から説明をしました。まずは「自分自身の悟性(心的能力一般)を用いる勇気をもて!」で知られるように自分の頭で考えることの重要性を共有しました。そして、そこから発生する理性の公的使用と私的使用の問題について説明しました。何のために自分の頭で考える必要があるのかというと、世界市民として全人類のために理性を公的に使用するためである点を説明しました。いわば思想良心の自由や言論の自由の源流となっています。
これに対して、第2部と第3部では、理性の公的使用(世界市民のために)と私的使用(地域や企業、国家のために)の線引きがどこでなされるのかという質問がなされました。客観的に計測できる基準があるわけではなく、カントの道徳哲学における「善意志」に立脚したものか否かが重要であると回答しました。つまり、カントの時代であれば、帝国もしくは宗教的権威に抗して、真理を求めて自らの思想良心の自由を貫こうとしているのかどうかが重要であるということです。
現代的に受け止めるのであれば、国家や企業の悪事を暴露する内部告発者を擁護する根拠となるでしょうし、いわゆるアイヒマン問題に見られるように組織の論理に抗って良心を貫く根拠となるでしょう。
ロシアによるウクライナ侵攻をめぐる問題については、国家の利益のために、ウクライナとロシア双方の「世界市民としての人びと」の生命や財産を侵害するのみならず、思想良心を脅かしている点から批判の声を上げることが可能となるでしょう。また、様々な意図のもと流布されるプロパガンダやフェイクニュース、そして陰謀論が力を持つ中で、世界市民の立場からそれを批判的に検証する良心を支持する根拠となるでしょう。
その一方で、客観的な基準がないため「善意志」という主観的な原則に立脚しており、それゆえに双方の意思疎通を困難にすることは容易に予想ができます。最後には、そもそも啓蒙する以前にコミュニケーションが成り立っているかどうかが怪しいのではないかと疑問が上がり、次回は「人は話せばわかるのか」と題して、コミュニケーションについて哲学的に対話を行うことになりました。