11/15(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名、オンライン1名による開催となった。議論の出発点として、まず前回(10月)の「民族とは何か?」の議論の核心をおさらいした。
「民族(ネイション)」とは、「近代(Modern)」が「国民国家」を成立させるために「発明」したフィクションであった。それは、それまでバラバラだった人々を「国民」という一つの物語に統合するため、忠誠心や「血の共同体」という幻想を必要とする、極めて「強いつながり(Strong Ties)」のシステムである。そして、この「強いつながり」の純粋性を維持するため、必然的に「異物(少数派や他者)」を排除するという二重の性質を帯びていた。
今月の問いは、この重い歴史的文脈を踏まえたものである。世界を席巻する日本のポップカルチャー「新ジャポニズム」は、この近代的な「強いつながり」の呪縛からの「解放」なのか。それとも、その「反復」に過ぎないのか。私たちは、この現象を「近代」に対置される「ポストモダン(Postmodern)」の現象として捉え、それが「強いつながり」とは異なる「弱いつながり(Weak Ties)」の構造によって成り立っているのではないか、という仮説を立て、NHKスペシャルの書籍版『新ジャポニズム』の事例を手がかりに、その「光」と「影」の解剖を試みた。
第1部:「新ジャポニズム」の輝き ― 「弱いつながり」の可能性
『新ジャポニズム』が描いたように、世界が熱狂している対象は、コンテンツの「完成品」以上に、その背後にある構造そのものである。
近代の「民族」や「一神教」が「かくあるべき」という強力な「規範(ドグマ)」を提示し、「強いつながり」を要求するのに対し、日本のポップカルチャーが提示するものは、構造が異なるように見える。
- マンガ(『進撃の巨人』など)は、明確な善悪二元論を提示しない。代わりに「答えのない物語」という「器」を提供し、受け手はそこに自らの複雑な現実を投影し、解釈の「自由」を得る。
- ボーカロイド(初音ミク)は、カリスマ的な「アーティスト」を提示しない。それは「開かれた創造プロセス」という「道具」そのものであり、誰もが「つくるもの」へと転換できる可能性を提供する。
この構造は、「ポストモダン」的であり、参加者に「強いつながり」を要求しない。人々は「国民」や「信者」として全人格的にコミットするのではなく、「ファン」として、その興味(熱狂)の範囲においてのみ、自発的かつ一時的に繋がる。これが「弱いつながり」の本質である。
この「規範」ではなく「場所」や「道具」を提供する構造は、西洋的な「一神教」の宇宙観とは異なる、「八百万の神々(=多様な価値が並立・共存する)」という日本古来の宇宙観のアナロジーで捉えることができる。
ポップカルチャーとは、『ONE PIECE』という「場所」、『ポケモン』という「場所」、『初音ミク』という「場所」が、それぞれ独立した「タコツボ」として世界中に自然増殖していく、まさに「八百万」的な現象である。これが、まず確認された「光」の側面である。
第2部:「行為的直観」の現代的発露
では、この「ポストモダン」的で「弱いつながり」を基盤とする創造は、いかなるプロセスによって可能となっているのか。ここで私たちは、8月の哲学カフェ「『手触り』の哲学カフェ」で議論した、西田幾多郎の「行為的直観」という概念を再び召喚した。
「行為的直観」とは、設計者の「思念(つくるもの)」が「製作(つくられたもの)」へと具現化し、その「もの」からのフィードバック(=手触り)が、再び設計者の「思念」を更新していくという、主客未分・シームレスな創造の循環プロセスを指す。
日本のポップカルチャー(特にマンガやボカロ)こそ、この「行為的直観」が最も高密度で発揮されている現場ではないだろうか。
- マンガの週刊連載:作者の「思念(構想)」が「原稿(つくられたもの)」となり、即座に「読者アンケートやSNSの反応(手触り)」を得る。その「手触り」が、翌週の「思念(構想)」をリアルタイムで変容させていく。
- ボカロ文化:これはさらに先鋭的だ。あるボカロPが発表した「曲(つくられたもの①)」に「手触り」を得た絵師や動画師、リスナーが、新たな「思念」を得て、二次創作・三次創作(つくられたもの②, ③…)を生み出していく。
AdoやYOASOBIの登場は、この「行為的直観」的な創造プロセスが、特定のアーティストからではなく、無数の個人の実践(=弱いつながりのネットワーク)が相互に作用しあう「場所」からスターダムを生み出した、画期的な事例と言える。
この「ボトムアップの創造性」こそ、「新ジャポニズム」が持つ輝きの正体であり、西田哲学の現代的発露として高く評価できる点である。
第3部:「タコツボ」の排他性 ― 「弱いつながり」の呪縛
しかし、私たちの哲学カフェは、この楽観論(光)だけで終わることを許さない。
ここで、「ポストモダン」の「弱いつながり」が持つ、暗い影(パラドックス)が立ち現れる。
「弱いつながり」の共同体(ファンダム)は、「八百万の神々」のアナロジーであるならば、それは必然的に「ムラ社会」の論理を伴う。
- 近代の「民族」(強いつながり)の排他性:
ドグマ(教義)やイデオロギーによって人々を統合し、「教義を信じない『異端者』」や「国民ではない『他者』」を明確に排除する。 - ポストモダンの「ムラ」(弱いつながり)の排他性:
絶対的な「規範」がない。では何が「ウチ」を統合するのか。それは、その共同体の「空気(暗黙の掟)」である。
「弱いつながり」は、参加も離脱も自由であるはずだ。しかし、ひとたび「ファンダム(ムラ)」が形成されると、その「タコツボ」内部には、外からは見えない強烈な同調圧力が生まれる。
排他性は、その「空気」を読めない「ヨソモノ(よそ者)」に向けられる。
「ヨソモノ」は「異端」なのではなく「ケガレ(穢れ)」として排除される。「強いつながり」の共同体(近代)のような明確な改宗プロセスがないため、一度「ソト」と見なされれば、加入は極めて困難である。
この「ムラ社会」の排他性は、ファンダムにおける「にわかファン」への蔑視や、「解釈違い」を許さないコミュニティ内の苛烈な非難として観測される。
これは「教義」に反する「異端審問」ではない。その「場所」の「空気」を乱す「ケガレ」の排除であり、関曠野が批判した「近代の民族(ネイション)」が「異物」を排除する論理とは異なる、より古く、より陰湿な「日本的排他性」の反復そのものである。
9月に分析したポピュリズムが「近代のナショナリズム」の変奏であったとすれば、「新ジャポニズム」のファンダムが示す排他性は、「前近代のムラ社会」のポストモダン的(ハイテク)反復である。
「開かれた自由」を謳歌しているはずの「ささやかな共同体」は、その実、デジタル空間に無数の「排他的なタコツボ」を増殖させているだけではないのか。これが、私たちが直面した「影」の側面である。
第4部:結論 ― 12月への問い
今回の議論は、「新ジャポニズム」という現象が、「行為的直観の現代的発露(光)」と「ムラ社会の排他性の反復(影)」という、強烈な二重性を内包していることを明らかにした。
この「創造性(光)」と「排他性(影)」の両義性こそ、私たちが「日本人として」引き受けねばならない「ナショナリティ」のリアルな姿ではないだろうか。
そして、この問いは12月の最終回「SDGs~世界の中の日本:インターショナリティとナショナリティ~」へと直結する。
- SDGs = 西洋的な「規範(ドグマ)型」のインターショナリティ。「近代」的な「強いつながり」をグローバルに要求する。
- 新ジャポニズム = 日本的な「空気(ムラ)型」のナショナリティ。「ポストモダン」的な「弱いつながり」の創造性(光)と排他性(影)を併せ持つ。
根本的に異なる「OS」を持つこの両者を、私たちはどう出会わせるべきか。「ムラ」の排他性を克服し、「行為的直観」の創造性を、SDGsというグローバルな課題解決に活かす道筋はあるのか。
「日本人としていかにして生きるべきか?」という一年間の問いは、最終章に向けて、具体的かつ極めて困難な課題を私たちに突きつけている。