【活動報告】禅宗と哲学の視点から「自己」について考える

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弟子の投稿です。

自分とは何だろうか?」というテーマについて哲学カフェを実施しました。

分かっているようで意外と説明しづらいのが「自分」というもので、今回は禅宗と哲学の両方の視点から考えてみるというテーマを選択しました。

なぜか連休の中日に開催してしまいましたが、9名で活発に学習を深めていきました。

 

自己についてのイメージ

最初に、自分と他者との境目、自分らしさや自分という存在にとって不可欠なものなどを参加者の方々に付箋に書き出していただきました。

 

自由に使える時間、コントロールできるものや自分で決められることが欠かすことはできないという意見が多かったです。コントロールできる範囲がモノとしての肉体であり、願望や欲にしたがって行動、表現できることが自分らしさであり、それらが他者と通じ合うことが自己実現であったり、嬉しさや感動などの充実感につながるという見方も挙がりました。

 

多くの現代人にとっては相通ずるところが多い意見ではないかと思われます。

 

西洋哲学史は「自分」をどう考えてきたのか?

西洋哲学史については以前の哲学カフェで扱いましたが、

歴史の中で共通しているのは自己ー世界ー神との相関関係です。キルケゴールも説いていますが、自己とは世界との関係性の中で決まるものです。ここでは何人かの哲学者について扱います。

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1.ソクラテス、プラトン(ギリシャ:BC469-399, BC427-347)

ソクラテス自身は著作を遺していないためプラトンと一緒に説明します。

当時の世界観としては人間や自然など全てのものが「創造主(デミウルゴス)」によって作られたと考えられていました。

「無知の知」を説いたソクラテスが目指したの無知である自分に気づいて知を愛し求める(フィロソフィア)ことの大切さであり、自分の「魂の世話」でした。

彼の弟子であったプラトンはイデア論を説きます。創造主の頭の中にある完全なるものを求める現実世界の自然物として自己が認識されます。自己の魂はつねに理想のイデア界をもとめて、より良くあろうと行動します。

このように常に理想の存在としての想像主(神)と、それへ近づこうとする自己という関係がありました。

 

2.デカルト(フランス: 1596 – 1650)

我思う、故に我あり」(方法序説)という言葉はあまりに有名ですね。

デカルトは自らの哲学の体系を築くにあたり、方法的懐疑というアプローチで全て不確かなものを排除していきました。最終的に、考えているという私それ自体の存在は疑うことはできないものであり、確かに存在するということから世界を見つめる自己という主観/客観の図式を作りあげました。

実は、それは神をも含めた三元論でした。

考える自分と広がりある世界を根拠付ける完全な存在としての神が必要だったのです。

 

3.ヒューム(イギリス:1711 – 1776)

ヒュームは人間の本性について追求したイギリスの哲学者で、「人格は知覚の束」だと説きます。

知覚とは私たちの感覚が刺激されておこる印象(このリンゴは赤い)や観念(あのリンゴは赤かった)から成るのですが、それらを組み合わせることで人間の知が形成されます。ヒュームによれば、こうして作られた想像の産物の1つに自己も含まれており、「自己」という実体はなく、自分とはさまざまな知覚がつづくだけの「知覚の束」にすぎないというわけです。

 

4.ヘーゲル(ドイツ:1770 – 1831)

ヘーゲルは絶対精神の自己展開という説を掲げます。自己自身が世界に横たわる障害を乗り越えて展開すれば絶対精神になるというものです。自分が信じるものを否定して、新たな地平に立つという苦しい過程を繰り返していくことで自己そのものが絶対精神に到達し、神に近いものへとなっていくというものでした。精神現象学という著書に詳しく述べられていますが、哲学や宗教、芸術などあらゆるものをカバーする存在が絶対精神という、らしいです。ちょっと想像しづらいですね。

 

5.ハイデガー(ドイツ:1889 – 1976)

ハイデガーは世界内存在を説き、世界から独立した自己はいないと言います。存在としての自分は他者や身の周りのものとの関係性の中で生きており、その連関こそが私たちのいきる世界であるというわけです。

ちなみにハイデガーは死が誰にでも運命づけられているということから「死へ向かう存在」としての人間は死の瞬間をもって初めて本来の存在でありうるとも考えていたようです。過去の哲学カフェでも少し扱っています。

 

以上、おおまかに見てきたように哲学の歴史の中では自己、世界、神との関係性をどのように解釈するのかという点が一貫して共通するテーマであり、三者の関係性や対立や帰属など、どのようなバランスで捉えるべきかというのが相違点でした。

 

仏教・曹洞宗の視点から自己を考えてみる

つづいて、富山市にある最勝寺の副住職である谷内様に仏教的な視点から自己について教えていただきました。

仏教も様々な宗派がありますが、シャカ自身の唱えた原点のいくつかを扱いました。西洋哲学とは違って日本人にはこちらのほうがかなり理解しやすい気がします。

諸法無我

すべてのもの(人)において私、私のものという実体は存在しない。すべてのものがその関係性によって存在している

諸行無情

すべては移ろい行く。そこに善悪の別はない → 縁起(えんき):世の中の関係性 因・縁・果

「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す」

一切皆苦

人はひとしく不幸である。常に悩み苦しみの中になり、老いて死ぬだけの生き物である。

 

シャカの説くところによれば全ては移ろい行くだけのものであり、全ての人は一切皆苦の中にある不幸な生き物であり、そこに良い悪いの別もないということです。そんな虚しい存在の中に自己・自我というものが芽生えたのが私たち人間というわけです。

 

哲学の歴史では自分という存在の位置づけがだんだんと大きくなる過程を取りましたが、仏教のアプローチは「涅槃寂静」を目指して「わたし」を小さくしていくための知恵を身につけ、本来の自己に目覚める(さとり)ことです。本来の自己のことを「無我」と呼びます。

それにしても、本来とは違う自己=自我とは何でしょう?

とても面白い例えを谷内さんが仰っいました。

自我というのは生き物としての私の「命」の中に間借りしている下宿人のようなものであると。

下宿人のくせにエラそうな態度で我が物顔で「命」が思うがままになるという思いこみ。これこそが自我にとらわれる事であり、無我・無常・縁起などの真理を認められない無明(むみょう)ということになります。

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冒頭で、自分の意志で自由に決められる、コントロールできるという所に自分らしさを見出すという意見もありましたがよくよく考えると自分の体でも自由にならないところはたくさんありますね。勝手にお腹は空くし、心臓は動いているし、なりたくもないのに病気になったりしますし。下宿人である自我には命の営みに対してコントロールできない所はたくさんあるのに、まるで自分のほうが命の支配人であるかのように考えてしまいがちです。

 

自我を解体するシステムとしての修行

悟りを目指して修行を行う僧の集団のことをサンガと言います。曹洞宗の総本山である永平寺では座禅・礼拝が中心の修行生活を共同で過ごしますが、こうした修行のためのシステムが連綿と続いてきたのが仏教の特徴です。きびしい修行生活の中で無我の体得を目指すのですが、禅宗は仏教の原始的なアプローチが色濃く残っていると言えるかもしれません。

この修行によって「命」そのものを分かるようになる、作られた「自分」と「命」との切りはなしを目指します。

道元禅師いわく、毎日座禅をしてお寺で修行生活をしても20年はかかるそうです。なんと気の長いことでしょう。

俗世に生きる私達にはなかなか到達できない境地なのかもしれません。しかし我がもの顔でのさばる自我を抑えることによって、縁起という関係性の中で、「命」としての自分が本来のカタチになれるという考え方は参考になりそうです。

 

まとめ

2時間の中で哲学 と仏教の両面から自己について考えてみました。両者の対比がクリアになる一方で、2500年前の昔から続いてきたテーマでもあり、なかなか新しい地平へとアウフヘーベンできなかったのが反省点です。

とは言え、せっかく仏教の文化が色こい北陸の哲学カフェですから、こうした共同企画は継続していきたいと思います。

ご参加くださった方々、ありがとうございました。

合掌

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