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【活動報告】第76回哲学カフェ×ミュージアム「もしプラトンが政治家になったら?」2024/11/17

11/17(日)にFactory Art Museum Toyama において「もしプラトンが政治家になったら?」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地4名、オンライン参加1名での開催となりました。

当日の写真

導入として、プラトンの善のイデアと哲人政治の構想を概観しました。善のイデアについて、参加者は「すべての現象や価値を統合する究極の真理」としての意義を共有しました。特に『国家篇』における哲人政治(哲学者が統治する理想国家)の考えに触れ、それは政治理論と言うよりは、いかに善のイデアに基づくものであるかが共有されました。

興味深い観点として、儒教の視点からの比較儒教における「仁」や「徳治主義」とプラトンの哲人政治を比較する議論が展開されました。儒教では、善き統治者は徳を通じて社会を導くべきとされており、これは哲人政治の理念と通じる部分があると指摘されました。
一方で、儒教の「具体的な道徳規範」と仁や礼といった関係性を重んじる考え方と、プラトンの抽象的な善のイデアの違いが議論を活発にしました。

カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』におけるプラトン批判にも触れました。ポパーは哲人政治を「全体主義や陰謀論の温床」と見なしており、その観点から「善のイデア」や哲人政治の危険性を再評価しました。参加者の間では「善のイデアは権力者によって独占される危険がある」との意見もありましたが、「イデアの追求は理想を掲げる指針として重要」との反論も挙がりました。

AIは現代の哲人政治の担い手となりうるか?というトピックについても議論しました。参加者は、AIが膨大なデータを処理し客観的な判断を下せる点に注目し、「現代版の哲人」としての可能性を議論しました。AIが人間のバイアスを排除し、善を基準に政策を形成することができるかもしれないという期待が挙がりました。一方で、参加者からは「善の基準そのものを設定するのは人間であり、AIにそれを託すことには倫理的リスクが伴う」との懸念も表明されました。AIが哲学的思索や道徳的判断を行うには、人間の直感や感情に基づく理解が欠けているという指摘もありました。実際のAIの運用においてはかなり倫理のタガがはめられているところを見ると、やはり人間の倫理観が最後に必要になるのではないかという合意が得られました。

洞窟の比喩
洞窟の比喩

最終的に「善のイデアは現実的な政策や統治にどのように貢献できるのか?」が議論の焦点となりました。「善のイデアは実現不可能であるし独断的になる恐れはあるが、ポピュリズムや分断、情報操作が猛威を振るう現代社会においては、目指すべき理想として存在する価値がある」との意見には一定同意を得られました。

2024年は選挙イヤーであったこともあり、政治の話題を多く取り入れました。次回は2024年の締めくくりとして、SDGsを話題として場所を旧高岡大和の御旅屋セリオに移して対話を行います。

【活動報告】第75回哲学カフェ×ミュージアム「選挙とは何か」2024/10/20

10/20(日)にFactory Art Museum Toyama において「選挙とは何か」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地5名、オンライン参加2名での開催となりました。

前回は「”主体性からの逃走は可能か?~ハイデガーから考えるロシアのウクライナ侵攻問題~」と題して議論をしました。ハイデガーに潜む近代的自我への懐疑が、民主主義を破壊する危険性について考察をしました。

今回は、27日投開票日の衆院選と富山県知事選を目前として、そもそも民主主義の構成要素の一つである「選挙とは何か」について議論を行いました。

第一部では選挙とは何かについて私たちが持つ原初的なイメージを共有した上で、さらにそれぞれが抱える「選挙」に関する原体験をたどるために学生時代の選挙についてのイメージを共有しました。

第二部ではそれに対して、直接民主制と間接民主制の違いという普遍的なテーマや、くじ引き論や外山恒一さんの選挙は欺瞞だとするラディカルな意見を取り上げながら多角的に選挙制度について検証を行いました。

第三部では、これらを踏まえて、改めて選挙とは何かについて再定義をしながら、選挙制度の諸制約を踏まえながらも、「それでもなお」政治の可能性について語り合うという展開となりました。

当日のホワイトボード

選挙はあくまで民主主義のほんの入り口であり、必要条件の一つにすぎず、それから先の政治活動が肝要であることは共有できたのかなと実感しました。

今回は、各々の実体験をベースに語り合うように努めました。ファシリテーターの個人的な体験をこちらに共有して結びとさせて頂きます。富山県朝日町で生まれ育ち、現在も在住しておりますが、そこでの政治に関する体験を記します。

現在の町長が10年前に選出されたときに、朝日町再生会議が組成されて、今にして思えば町長の求心力の補強という意味合いがあったのだと思うのですが、私と結婚して移住したばかりの妻がその再生委員としてコミットすることとなりました。再生会議での意見が第5次総合計画に反映されるとの触れ込みで、その再生会議は批判も受けましたが大変な活気がありました。

その一つの成果が、立山町の類似の事例を参考とした「おうちで子育て応援事業」で、その後子どもを授かった我が家もその恩恵に浴することができました。妻のほんのちょっとした発言で町長の決心が固まったという感触でした。今の石破総理が初代地方創生大臣として打ち出した地方創生によってブーストされたというかなり幸運な側面もあったと思いますが、政治のダイナミズムに関わる醍醐味を実感しました。ある意味3歳以下のベーシックインカム的な制度であり、ベーシックインカム研究にもコミットした者としては感慨無量でした。

朝日町は10年前に消滅可能自治体の烙印を押されてその後も脱出することはできず、ついに人口1万人割れと言う憂き目にあっていますが、推計よりは上振れしているということでこの政策が大きな原因と見られています。実際、非婚者は多いという問題はあるものの、身の回りの結婚した世帯での子供の数はとても多いという実感はあります。

月並みな言葉になりますが、選挙のその先の不断の努力で未来は変えられるという体験をすることができました。それはほんのちょっとした勇気だったりするのです。バタフライエフェクトを願って、哲学カフェを継続している動機でもあります。

ブルーステートとレッドステート

【活動報告】第71回哲学カフェ×ミュージアム「反知性主義とは何か」2024/6/16

6/16(日)にFactory Art Museum Toyama において「反知性主義とは何か」をテーマとして哲学カフェを開催しました。

現地4名、オンライン参加1名での開催となりました。

前回は「アメリカニズムとは何か」について議論をしました。かなり広範なテーマであったので、せっかく興味を持っていただいたのに分かりづらい面が多くあったように思いました。そこで、その中でも最もヴィヴィッドな特性である「反知性主義」というテーマをもって対話することとしました。

何と言っても反知性主義のコアにあるのはプロテスタンティズムです。キリスト教の起こりはイエスがユダヤ教の権威に異議申し立てをしたことですし、プロテスタンティズムの起こりもルターがカトリックの権威に異議申し立てをしたことです。そして、アメリカ植民の起こりもピューリタンが英国教会という権威からの独立ですし、アメリカ合衆国の独立もその延長線上にあります。

権威に対する平等主義が根底にあり、日本で乱用される「反知性主義」という言葉の権威主義的な使い方とは真っ向から対立するわけです。つまり、反知性主義とは、反知識人主義と言ってもいいわけです。

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』で広く周知されるようになりましたが、近年この概念に注目が集まるようになったのは何と言ってもトランプ現象によるところが大きいでしょう。荒唐無稽な陰謀論に耽溺するだけでなく、アメリカ議会に乱入して武力行使を行う過激な集団がなぜ大きな勢力となって、トランプ現象が生み出されるのかという疑問があるのでしょう。しかも、科学技術の最先端をリードするアメリカが、なぜ相反するような大きな政治勢力を生み出すことへの疑念が生まれるのはもっともなことだと思います。

しかし興味深いのは、この両面がプロテスタンティズムの現れなわけです。例えば、ニュートンは敬虔なキリスト教徒であり、かつ宇宙の物理法則を解明する科学者でもありました。また、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも説かれているように、資本の拡大が信仰の証であったりもするわけです。科学もビジネスも成立の当初はその両面が緊密に結びついてたのが時代が進むごとに分断してしまうという訳です。

ブルーステイト(民主党支持州)とレッドステイト(共和党支持州)の話もしましたが、この両面がアメリカニズムの現れであるわけですが、今は深い分断の溝を生んでいます。

分断を生んでいる一つの代表例としてキリスト教の中核をなす創造論と、それに真っ向から歯向かう科学的な進化論との対立についての議論も行いました。私たち日本人にとっては進化論がなじみのあるものなので、科学技術の最先端を走るアメリカ合衆国で創造論が大きなプレゼンスを生んでいることに理解が及びません。ましてや報道されるのが、いわばキラキラしたアメリカばかりなのでなおのことなじみがありません。

それもあってか、この議論がなかなか活性化しませんでした。そこで角度を変えて、私たち日本人がどうアメリカニズムや反知性主義をとらえ直すのかという議論の仕方を行いました。日本人論はさすがに盛り上がりますが、やはり、アメリカニズムのベールがなかなか晴れませんでした。所詮は教育の問題じゃないか、どうせ日本人にはキリスト教の考え方は理解できないのではないか、日本人には寛容の精神があるが、キリスト教は偏狭であるなどなど。

そこで、一度アメリカ論からは距離を置いて、私たちにとって親しみのあると思われる日本人論を批判的に行うことで、客観的な視座を得ながらもう一度アメリカ論に取り組むということにしました。次回は、「日本教とは何か?」~ここが変だよ日本人~と題して、日本人論について議論を深めます。