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【活動報告】第83哲学カフェェ「技術のナショナリティとは何か?」2025/5/18

5/18(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地7名、オンライン2名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。

第1部の内容
第1部の内容

第1部:技術は国家に制約されるものか、グローバルに解放されたものか?

最初のセッションでは、ホワイトボードの左右にそれぞれ「技術と国家」「グローバル」というテーマが掲げられ、これらの視点から議論が展開されました。

「技術と国家」– ナショナルな文脈における技術の諸相

「技術と国家」の関連では、まず「国家」が技術にどのように関わるかが探求されました。具体例として、「大学教育」や「建築」が挙げられ、これらは「国際的な圧力を受ける」側面も持つと指摘されました。また、よりローカルな「地域ルール」や、技術開発の推進力となりうる「国家予算がつくか否か」という点も議論の対象となりました。

歴史的な言葉として「鉄は国家なり」というフレーズが引用され、基幹技術と国家の結びつきが示唆されました。さらに、{ユーザーの論理}という視点から、個々人の「関心のある系」としての「工芸」や、明確に「国家を守るための技術」としての「軍事」などが、「生き残る」という目的意識と共に論じられました。

「グローバル」な技術 – 普遍性と人間側の課題

「グローバル」な技術の側面については、その広がりを示す要素として「ネットワーク」「国際学会」がキーワードとして挙げられました。「技術はそもそも文化の枠にしばられない」そして「技術にもお金にも国境はない」といった意見が出され、技術の持つ本質的な越境性や普遍性への期待が示されました。

一方で、このような技術のグローバルな展開に対して、「技術の暴走?」という懸念も提示されました。しかし、この問題は技術そのものよりも、むしろ「使う側の暴走」に起因するのではないか、という議論へと発展しました。

さらに踏み込んで、「技術の封印」の是非や可能性、そして「技術の中立性?」という根本的な問いが立てられました。この「技術の中立性」に関しては、単純な肯定や否定ではなく、何らかのプロセスを経て、最終的には「学問の普遍性」に繋がるという方向での考察が試みられました。

興味深い点として「特許」という事例が挙げられ、普通には国家に年貢を払うことから普遍性を目指さないと見なされがちで、実際利益の追求のために運用されがちですが、崇高な理念としては公開性という一面もあるため、ホワイトボードでは微妙な位置づけに修正されました。

第1部では、これらのホワイトボードに集約されたキーワードやフレーズを通じて、技術が国家的な文脈の中で多様な影響を受けつつも、同時にグローバルな普遍性を志向しうる複雑な性格を持つこと、そしてその利用や影響に関しては人間側の倫理や制御が問われることが確認されました。

第2部:技術に支配される私たち? それとも技術を使いこなす私たち?-ハイデガーとフィーンバーグを手がかりに-

第2部と第3部の写真
第2部と第3部の写真

第2部では、ホワイトボードに「技術と国家」というテーマが継続して掲げられ、その下でマルティン・ハイデガーとアンドリュー・フィーンバーグの対照的な技術観が取り上げられました。

まずハイデガーの思想について、彼の言う「ゲシュテル(総駆り立て体制)」という概念が紹介されました。これは、近代技術が人間や自然を計算可能・操作可能な対象として捉え、効率性や生産性のためにあらゆるものを動員していく体制を指します。この視点から、「原子力技術のナショナリティ」や「宇宙技術」、そして「サイバーテロリズム」といった大規模で国家的な関与の強い技術が、個人の意思を超えて社会を規定していく側面について議論されました。技術が自律的に歩き出すかのような「技術の一人歩き」という言葉も板書され、技術の持つ力に対する畏怖や懸念が共有されました。

次に、フィーンバーグの「技術の民主的合理化」という考え方が提示されました。フィーンバーグは、人間が技術を一方的に受容するのではなく、その設計や利用のあり方に対して民主的に関与し、より人間的な価値や目的に沿って技術を「制御できる」と主張します。具体例として、かつて危険視された「ボイラー」技術が安全基準の確立によって社会に受容された経緯や、フランスのオンラインシステム「Minitel」がユーザーの創造的な利用によって当初の想定を超えたコミュニケーションツールへと発展した事例、さらには児童労働を禁じることによって生産性がかえって向上した事例が挙げられ、人間が技術を主体的に制御していく可能性が探られました。

これらの思想を通じて、技術のナショナリティが、国家によるトップダウンの技術導入(ハイデガー的視点)と、市民社会からのボトムアップによる技術形成(フィーンバーグ的視点)という二つの側面で現れうることが議論されました。

第3部:創造の主体として立つ-西田幾多郎の視点から見た技術とナショナリティの未来-

最終セッションでは、日本の哲学者・西田幾多郎の思想を軸に、これまでの議論を統合し、技術とナショナリティの関係性について、そして「技術とは何か」という根源的な問いへのアプローチが試みられました。ホワイトボードにはまず、現代の市場における「需要の大小で技術を分類」する視点や、「供給」側の論理としての「プロダクトポートフォリオ」といった言葉が記され、経済合理性が技術のあり方を大きく左右する現実が確認されました。

このような状況に対し、西田幾多郎の「作られたものから作るものへ」という言葉が提示されました。これは、私たちが既存の技術や社会システム(作られたもの)に規定されるだけでなく、それらを素材として新たな価値や意味を創造していく主体(作るもの)へと転換することの重要性を示唆します。

ホワイトボードには、この思想を体現するかのように、「技術」「人間」が相互に影響を与え合う関係が描かれ、それら全体を「場所」という概念が包み込む図が示されました。さらにその外側には「絶対無の場所」という西田哲学の中心概念が記され、技術も人間も自然も、そしてそれらが織りなす具体的な「場所」(それは文化や歴史、あるいは国家というナショナリティを帯びた場でもある)も、全てはより根源的な「絶対無」において生成し、関係し合っているという深遠な世界観が提示されました。

この西田の視点から、技術のナショナリティは、単に国家による制約やグローバルな均質化の対立軸として捉えられるだけでなく、特定の「場所」において「人間」が「自然」と関わりながら「技術」を「作り」、またそれによって自らも「作られる」という、よりダイナミックで創造的なプロセスとして理解される可能性が示されました。「技術とは何か」という問いに対しても、このような人間、自然、そして場所(ナショナリティや文化を含む)との相互作用の中で絶えず生成変化していく創造的営為である、という方向性が示唆され、議論は締めくくられました。

4. 技術とは何か?

技術とは何か?
技術とは何か?

これまでのセッション(第1部:技術のナショナリティとグローバリティ、第2部:ハイデガーとフィーンバーグの技術観,、第3部:西田幾多郎の視点から見た技術とナショナリティの未来)で深められた議論を踏まえ、最終セッションでは哲学カフェの根源的な問いである「技術とは何か?」という定義に挑戦しました。ホワイトボードには、まず「技術と倫理」そして「制御可能にできるか?」という、技術の持つ力とそれに対する人間の責任を問う言葉が記され、定義を試みる上での重要な視座が確認されました。

参加者からは、「技術の定義は?」という大きな問いに対して、多様な角度からの意見が活発に提示されました。ホワイトボードに集約された主な視点は以下の通りです。

  • 「自然科学・社会科学を超えた次元」を持つもの: 技術は単なる科学の応用や社会現象に留まらず、それらを超えた人間存在の根源的なあり方に関わるものとして捉えられました。
  • 「人間の精神活動のあらわれ」: 技術は、人間の知性、意志、創造性といった内面的な精神活動が外部に具現化したものであるという意見が出されました。
  • 「手段として限定すべき」か、あるいは「目的論を上位に置く」べきか: 技術を特定の目的を達成するための「手段」として捉える見方に対し、技術そのものが内包する、あるいは技術を用いることで達成しようとする「目的」や価値をより重視すべきではないか、という議論が交わされました。板書では、「手段として限定すべき」という意見から矢印が引かれ、その対象として「自然」への働きかけが示唆された後、それと対比されるかのように「目的論を上位に置く」という視点が提示されました。
  • 「人間のあり方と渾然一体となったもの」: 技術は人間から切り離された客観的な存在ではなく、むしろ人間の生き方や社会のあり方と分かちがたく結びつき、相互に影響を与え合うものであるという認識が共有されました。
  • 「与えられた制約の中での意志の実現」: 技術は、人間が持つ様々な制約(物理的、環境的、社会的など)の中で、それでもなお何かを成し遂げようとする「意志」が具体的な形をとったものである、という力強い定義も提案されました。

これらの多様な意見を交わす中で、技術が一義的に定義できる単純なものではなく、人間の存在、社会、自然、そして倫理といった広範な領域と深く関わる、多面的でダイナミックな現象であることが改めて浮き彫りになりました。今回の哲学カフェでは、この「技術とは何か?」という問いに対して最終的な単一の答えを出すことよりも、むしろ参加者一人ひとりが自身の言葉で技術を捉え直し、その本質について思索を深めるプロセスそのものに意義が見出されました。

今回の議論は、年間テーマである「私たちは日本人としてどう生きるべきか?」という問いに対しても、日本という特定の「場所」で、私たちが技術とどのように向き合い、どのような未来を「作っていく」のかを考える上で、重要な示唆を与えるものとなりました。

5. 参加者の気づきと今後の展望

今回の哲学カフェ「技術のナショナリティとは何か?」を通じて、参加者の皆さんは、技術という身近でありながらも捉えどころのないテーマに対し、多角的な視点から光を当て、その本質に迫ろうと試みました。一連のセッションを通して、以下のような気づきや今後の展望が共有されたと言えるでしょう。

まず、技術の多層性と文脈依存性への気づきです。第1部では、技術が国家による管理や戦略と結びつく側面(「鉄は国家なり」「国家予算」など)と、国境を超えて共有されるグローバルな側面(「ネットワーク」「規格統一」など)が、具体的な事例やホワイトボード上のキーワード(「生活様式」「言語」「デザイン」「技術の科学性」)を通じてマッピングされました。「便利なものは文化の壁をこえるが、しかし…」という言葉に象徴されるように、技術の普遍性とローカルな文脈における受容のされ方や意味づけの差異(「使う側の差異」)が常に存在することが確認され、技術のナショナリティが一義的ではないことへの理解が深まりました。

次に、技術に対する人間の主体的な関与の可能性と責任への自覚です。第2部におけるハイデガーの「ゲシュテル(総駆り立て体制)」という概念は、技術が人間を支配する可能性への警鐘として受け止められました。一方で、フィーンバーグの「技術の民主的合理化」という思想は、私たち人間が技術のあり方に対して主体的に関与し、「制御可能」なものへと変えていく希望を示しました。「原子力技術」や「宇宙技術」といった巨大技術から、「Minitel」や「ボイラーの安全基準」といったより身近な例まで、技術と人間の関係は固定的なものではなく、私たちの選択と行動によって変わりうるという気づきが得られました。これは、「技術の暴走?」という問いに対し、「使う側の暴走」の問題を意識することの重要性にも繋がりました。

そして、技術を人間存在の根源的な営みとして捉え直す視点の獲得です。第3部では、西田幾多郎の「作られたものから作るものへ」という言葉や、「技術」「人間」「自然」そしてそれらを包む「場所」(「絶対無の場所」を含む)という関係図が、深い示唆を与えました。技術は単なる「手段」に限定されるものではなく、「人間の精神活動のあらわれ」であり、「人間のあり方と渾然一体となったもの」、そして「与えられた制約の中での意志の実現」であるという多様な定義が試みられました。これらの議論は、技術を、自然科学や社会科学の枠を超え、人間の創造性や倫理観、そして世界との関わり方そのものを映し出す鏡として捉え直すことを促しました。

これらの気づきを踏まえ、今後の展望として、技術と私たちの関係性をより自覚的に、そして主体的に築いていくことの重要性が浮かび上がってきます。年間テーマである「私たちは日本人としてどう生きるべきか?」という問いに対しても、日本という特定の「場所」において、どのような技術的未来を「作り」、どのような価値を次世代に継承していくのか、という具体的な課題意識へと繋がるでしょう。「技術の封印」や「技術の中立性?」といった根源的な問いは、これからも私たちの社会が向き合い続けるべきテーマであり、今回の哲学カフェでの対話が、その一歩となることが期待されます。技術を単に消費するのではなく、その意味を問い、倫理的な視座を持ちながら、より良い社会の実現に向けて技術を創造的に活用していくという姿勢が、これからの私たちには求められているのかもしれません。

今回の哲学カフェが、参加者の皆さんにとって、日常の中の技術に対する新たな視点を発見し、今後の思索を深めるきっかけとなったことを願っています。

当日の会場の様子

【活動報告】第82回哲学カフェ「ユク・ホイの宇宙技芸を通じて考える:近代の超克と技術的未来の可能性」2025/4/20

4/20(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地7名、オンライン1名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。

当日の会場の様子
当日の会場の様子

ユク・ホイの「宇宙技芸」と「技術多様性」をテーマに、西田幾多郎と京都学派の「近代の超克」の限界を踏まえつつ、技術の未来について対話を深めました。前回の西田の議論から引き継いだ「近代を超えるとは何か」という問いを軸に、ホイの視点が現代にどう活かせるかを探りました。以下に、その概要を報告します。

1. ユク・ホイの思想と書籍の紹介

今回の哲学カフェでは、ホイの主要著作『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(2016年、日本語訳2022年)『再帰性と偶然性』(2019年、日本語訳2022年)を基盤に対話が進められました。『中国における技術への問い』では、ホイは技術を単なる道具ではなく、各文化の宇宙論に根ざした多様な実践として再定義する「宇宙技芸」を提唱。たとえば、中国の「道と器」の思想を基に、技術が自然や文化と調和する可能性を探ります。一方、『再帰性と偶然性』では、サイバネティクスやAIの発展を背景に、技術システムが自己還帰する「再帰性」と予測不可能な「偶然性」が技術の進化にどう影響するかを分析。ホイは、再帰性と偶然性が技術の決定論を超え、人間の有機性や自由を擁護する余地を切り開くと主張します。たとえば、AIが再帰的に自己最適化する一方、偶然性を活用することで、文化的多様性や創造性を反映した技術開発が可能になると論じます。

2. 西田の限界とホイの可能性

対話は、西田幾多郎の「近代の超克」の歴史的挫折から始まりました。参加者は、西田の「純粋経験」や「場所の論理」が西洋の二元論を超える可能性を持ちながら、戦時中の政治的現実を無視し、プロパガンダに利用された点を指摘。「形而上学を超えないまま」との声が上がり、京都学派の試みが政治的誤謬に陥った歴史を再確認しました。一方、ホイの「宇宙技芸」は、AIやデジタル社会といった現実的課題に着目し、哲学と技術実践を結びつける可能性が評価されました。ホイが提案する「技術多様性」は、中国の「道と器」の思想を基盤に、技術を文化的宇宙論に根ざした多様な実践として再定義するアプローチとして注目されました。

3. 技術多様性の具体例と現代的応用

技術多様性の実践的可能性として、参加者からは具体例が多数挙げられました。ホイが参照する歴史的例として、中国の都江堰が議論されました。都江堰は、紀元前256年頃に建設された灌漑システムで、岷江の流れを活かし、洪水防止と農地供給を両立させます。西洋のコンクリートダムが自然を支配するのに対し、都江堰は自然素材(竹、石)と自然の流れ(道)を活用し、中国の「天人合一」の宇宙論を反映。ホイはこれを技術多様性の歴史的モデルとみなし、自然の調和(道)が魚嘴や飛沙堰といった統合灌漑システム(器)として具現化された例と評価します。
また、日本の木造建築も技術多様性の例として挙げられました。法隆寺や東大寺のような木造建築は、地震に対応した柔軟な構造と自然素材(木材)を使用。西洋の石造建築(剛性重視)とは異なり、日本の建築は神道や仏教の自然共生の宇宙論に基づき、環境に適応します。釘を使わない組み立て技術(仕口・継手)は、関係性を重視する技術実践を象徴しています。
現代の例としては、日本のロボット技術(例:介護ロボット「パロ」)が、自然や人間との共生を重視する技術多様性のモデルとして議論されました。「AIが自然と共生する」未来のイメージも提案され、たとえば環境モニタリングAIが自然のサイクルに適応する可能性が検討されました。また、日本の民芸(伝統工芸)がローカルな技術実践として取り上げられ、グローバルな標準化に対抗する文化的価値が再評価されました。

4. 技術多様性の課題と参加者の疑問

技術多様性の実践には課題も浮かび上がりました。京都学派が政治的誤謬に陥った歴史を繰り返さないためにはどうすべきか、との問いが投げかけられ、「政治的な誤謬を繰り返す」リスクが議論されました。また、ホイの「宇宙技芸」が抽象的すぎる側面を持ち、「形而上的な技術はリアルか」との疑問も出ました。グローバルな技術標準とローカルな技術実践のバランス(「外部性⇄内部性」)をどう取るかも大きな課題として挙げられ、技術(Technics)とエンジニアリング(Engineering)の対立が議論されました。
さらに、参加者から次のような疑問が寄せられました。「とはいえ、実際には車社会や支払い決済の画一化の力が強すぎて、ハイデガーのいう『ゲシュテル』の力が強すぎる。技術多様性や宇宙技芸を唱えても無力ではないか?」これに対し、参加者間で以下のような回答が共有されました。「確かに画一化の力は強いが、そのような多様性を擁護する理論がないと、ますます画一化の力が強まるばかりだ。技術多様性は、現実の圧力に対抗する思想的基盤を提供し、小さなローカルな実践から変革を始める第一歩となる」。この意見は、ホイの思想が現実的な抵抗のきっかけとなりうるとの希望を参加者に与えました。

5. 参加者の気づきと今後の展望

対話を通じて、参加者は技術を単なる道具ではなく、人間と自然、文化的価値を結びつける実践として捉える視点を共有しました。ホイの「技術多様性」は、西田の「近代の超克」の失敗を批判的に継承しつつ、現代の環境危機や文化的均質化に対抗する新たな道を示す可能性を感じさせました。AIと自然の共生、日本の伝統技術の再評価など、身近な例から技術の未来を想像するプロセスは、参加者に哲学の実践的意義を実感させました。他方で、哲学の視点では抽象性をぬぐい切れずより一層の具体的な深堀が必要であるとの認識も共有されました。

今回の哲学カフェは、ユク・ホイの思想を通じて、技術の未来を多様な視点から考える貴重な機会となりました。参加者の皆様のご協力に感謝し、次回の対話も楽しみにしています。

【活動報告】第81回哲学カフェ「生きがいと善の研究、その可能性と限界について」2025/3/23

3/23(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名、オンライン3名参加者による開催となりました。大いに盛り上がった会となりました。下記が概要となります。

当日の会場の様子

議論の主要内容

1. 生きがいと哲学的探求

  • 生きがいと支え:生きがいとは何か、それをどのように見出すのかが議論の中心でした。生きがいは単なる幸福や満足感ではなく、深い内面的な動機や存在意義に関わるものとされました。
  • 西田幾多郎の哲学:西田幾多郎の思想が参照され、特に「純粋経験」や「絶対無の場所」が生きがいを考える上で重要な概念として取り上げられました。
  • 純粋経験:純粋経験は単なるフロー体験(没入状態)とは異なり、一切の判断や概念化が排除された直接的な経験を指します。西田の哲学では、この純粋経験が真実の認識の基盤とされています。
  • 絶対無の場所:これは社会的な属性(職業、地位、役割など)や、さらには絶望や悲しみといった感情すらも否定された場所です。自己や世界を根本から見直すための哲学的な基盤として提示されました。
  • 生きがいと絶対無:生きがいは、この「絶対無」の状態から新たに生まれる可能性があるのではないか、という問いが投げかけられました。

2. 哲学の動機とグリーフケア

  • 哲学の動機は悲哀:哲学的探求の根底には「悲哀」があるという視点が強調されました。悲しみや喪失感が、自己や世界について深く考えるきっかけとなり、哲学的な問いを生み出すとされました。
  • グリーフケアとの関連:この悲哀を哲学的に捉えることで、グリーフケア(喪失体験への対処)に有効なアプローチが得られるのではないかと議論されました。哲学は、悲しみを単なる感情として処理するのではなく、存在の意味を再構築する手段となり得ます。

3. 行為的直観と生きがい

行為的直観:西田幾多郎の概念である「行為的直観」が取り上げられました。これは、単なる知覚や思考ではなく、行為を通じて直観的に世界を捉えることを意味します。生きがいを見出すプロセスにおいて、行為的直観が重要な役割を果たす可能性が指摘されました。

    4. 前回の振り返りと新たな問い

    新たな問い:ホワイトボードには「生きがいは本当に必要?」「動機→経験→動機(生きがいと悲哀)」「行為的直観はグリーフケアに有効?」といった問いが記されており、参加者がこれらのテーマについて深く考えを巡らせたことが伺えます。我を忘れて没頭するだけでなく、損得を忘れて大いなるものに人生をささげて善く生きようとする経験を描いた西田幾多郎の『善の研究』が一つの参考になるかもしれないと示唆しました。

    茂木健一郎と神谷美恵子の議論:前回の哲学カフェでは、茂木健一郎と神谷美恵子の視点から生きがいが議論されました。茂木は脳科学的なアプローチから、神谷は実存的な視点から生きがいを捉えており、これが今回の議論の土台となりました。

    京都学派の実践的失敗と戦後批判

    一方で、西田幾多郎とその弟子たちの京都学派の「近代の超克」議論は、実践的な面で大きな失敗を犯し、戦後に厳しい批判を受けることとなりました。以下にその点を整理します。

    1.戦争の現実と政治的権力闘争の無視

    • 京都学派の思想家たちは、「近代の超克」を理論的に追求する中で、戦争の現実や政治的な権力闘争の激しさを十分に考慮しませんでした。たとえば、1940年代の日本は、軍国主義が台頭し、太平洋戦争へと突き進む時期であり、思想的な議論が現実の政治状況と乖離していました。
    • 彼らの議論は、戦争を正当化するイデオロギーとして利用される危険性を持っていました。たとえば、「近代の超克」シンポジウムでの発言は、軍部や国家主義的な勢力によって、日本のアジア支配を正当化するプロパガンダとして解釈されることがありました。

    2.世間知らずの議論

    • 京都学派の思想家たちは、大学というアカデミックな環境で理論を展開しており、現実の社会状況や政治的な力学に対する理解が不足していました。たとえば、西田の「絶対無の場所」や「行為的直観」は、哲学的には深い洞察を提供しましたが、戦時下の日本社会でどのように実践されるべきかについての具体的な指針を示すことはできませんでした。
    • この「世間知らず」な姿勢は、戦後の批判において、「現実逃避的」「観念的すぎる」と指摘される要因となりました。

    3.戦後の批判

    • 戦後、京都学派は「戦争協力」の責任を問われることとなりました。たとえば、「近代の超克」シンポジウムでの議論が、軍国主義的なイデオロギーを間接的に支持したと解釈され、戦後のリベラルな知識人やマルクス主義者から厳しく批判されました。
    • 特に、西田の弟子である高坂正顕や西谷啓治は、戦時中の発言や著作が国家主義的な思想と結びついたとして、戦後責任を追及されました。西田自身は直接的な政治的発言を避けていましたが、彼の思想が戦争を正当化する文脈で利用されたことに対する批判は免れませんでした。
    • 戦後の日本では、京都学派の思想は「時代錯誤的」「非現実的」と見なされ、一時的に影響力を失いました。戦後日本の知識人は、民主主義や個人主義を重視する方向にシフトし、京都学派の東洋的な精神性や「近代の超克」議論は時代にそぐわないと判断されました。

    理論と実践の乖離

    • 京都学派の思想は、理論的には近代を超克する可能性を示しましたが、それを現実の社会や政治に適用する具体的な方法論を欠いていました。たとえば、「絶対無の場所」から新たな生きがいや社会秩序を生み出すプロセスは、哲学的には魅力的でしたが、戦時下の混乱や戦後の復興期において実践的な指針とはなり得ませんでした。
    • この理論と実践の乖離が、京都学派の実践的失敗の核心的な要因となりました。

      次回の哲学カフェへの展望

      西田幾多郎と京都学派挑んだ「近代の超克」は、西洋近代の普遍主義や二元論を超えようとして、特に「純粋経験」や「場所の論理」は、人間と世界の新たな関係性を示唆する壮大な試みでした。しかし、戦時の政治的現実に飲み込まれ、大東亜共栄圏のような国家主義に利用されたことで、その理想は挫折に終わりました。この「超克」の困難さは、単なる過去の失敗ではなく、近代という巨大な枠組みを批判的に見つめ直す私たちへの重い課題として残っています。どこでつまずき、どうすればその先へ進めるのか──。

      次回の哲学カフェでは、現代の技術哲学者ユク・ホイが、この「近代の超克」の複雑な遺産にどう向き合い、批判的に継承しようとしているのかを探ります。ホイの提唱する「宇宙技芸」は、技術を西洋の単一な進歩観や効率至上主義から解き放ち、各文化の宇宙論──たとえば日本の自然との共生や中国の「道と器」の思想──に根ざした多様な実践として再定義します。西田が形而上学的な思索で超克を夢見たのに対し、ホイはスマートフォンやAIが支配するデジタル社会、環境危機といった現実を直視し、技術の未来に具体的な道筋を描こうとしています。彼の視点は、近代の失敗を繰り返さず、私たちに何を問いかけているのか。たとえば、日本の伝統的な木造建築や、中国のWeChatが示すデジタル文化の違いをヒントに、技術の均質化に抗うことは本当に可能なのか──そんな問いを一緒に考えてみる予定です。

      ぜひご参加ください。