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【活動報告】第90回哲学カフェ「SDGs ~世界の中の日本:インターナショナリティとナショナリティ~」2025/12/21

12/21(日)、今回は定例開催のFactory Art Museum Toyama とは場所を変えて、旧大和百貨店4階 御旅屋セリオにて、高岡市との共催企画SDGsDaysとして、「SDGs ~世界の中の日本:インターナショナリティとナショナリティ~」というテーマで哲学カフェを開催した。

現地12名と、今年では最高の参加者数での開催となった。

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1. 開催趣旨

年間テーマ「日本人としていかにして生きるべきか?」の最終回として、高岡市「SDGsDays」と連携し開催。SDGsという「国際的な目標(インターナショナリティ)」と、それを受け取る私たちの「日本的な現場(ナショナリティ)」の間にある摩擦や可能性について、エンジニアリングの視座を交えて対話を行った。

2. 議論の要点

(1) SDGsに対する「現場」の違和感

議論の出発点は、SDGs (Sustainable Development Goals)という言葉が現場にもたらしている「100%うさんくさい」「都合のいい看板(SDGsウォッシュ)」という率直な違和感であった。本来あるべき「危機感」が、数値目標の達成ゲームによって希薄化している現状への指摘がなされた。

(2) 構造分析:「静的な仕様書」vs「動的な創発」

この摩擦を解くため、SDGsの構造をエンジニアリングの視点で分解した。

  • SDGs = 仕様書(形式知): 国際社会から提示された、到達すべき「静的な目標(Goals)」
  • 現場 = 創発(暗黙知): その目標に関わらず、現場の試行錯誤から生まれ続ける「動的な改善(Development)」

(3) 提案と批判:「エンジニア哲学」と「ケア」の接続

議論の中盤、進行役(野末)より「世界をメンテナンスする(修理する)」というエンジニア哲学が提案された。これに対し参加者より「技術者だけが正解を持っているように聞こえる」という指摘がなされ、議論は「行為的直観」をキーワードに深化していった。

  • 西田哲学「行為的直観」の再解釈:
    「メンテナンス」の本質は、エンジニアの特殊技能ではない。それは西田幾多郎が説いた「行為的直観」の実践そのものである。
  • 計画(Goals)先行ではない: 「こうあるべき」という静的な設計図を世界に押し付けるのではなく、目の前の対象(壊れた機械、困っている人)に触れ、その反応を見ながら、手と思考を同時に動かすこと。
  • 創発的な解決策: それはあらかじめ固定された「開発」ではなく、問題に直面したその瞬間に、現場の手触りから生まれる「創発的な改善」である。この身体性こそが、予測不能な世界課題(バグ)を解決する鍵であり、あらゆる「ケア」の現場に共通する作法であることが確認された。

(4) 「G」と「D」の相克:静と動の対立

議論の総括として、ホワイトボードに記された「G」と「D」の力関係について、より厳密な定義に基づく分析がなされた。

  • 定義の修正:
  • G(Goals):静的な目標。あらかじめ固定された到達点・仕様書。
  • D(Development):現場からの創発的な改善。常に動き続ける動的なプロセス。
  • 「G > D」の罠(動性の凍結):
    静的なGoals(目標)が、動的なDevelopment(創発的改善)に対し優位になりすぎると、現場は「固定された正解」に合わせることを強いられる。結果、現場のダイナミズム(行為的直観)が凍結され、変化する現実に適応できない硬直したシステムとなる。
  • 「D > G」への転換(静を動かす):
    目指すべきは、Development(現場での動的な改善)がGoals(静的な目標)をリードする状態である。現場が主体的に手を動かし、そこで生まれた予期せぬ「創発的な解」が「静的な仕様書(G)」へとフィードバックされ、固定されていた目標そのものをアップデート(動的なものへ書き換え)していく。
  • フィードバックの具体例:BORO、民藝、アーツ・アンド・クラフツ
    この「現場の動的な実践が、静的なシステムを書き換えた」歴史的実例として、以下のトピックが挙げられた。
  • BORO(襤褸): 「布とはこうあるべき」という静的な規範(G)からではなく、寒さを防ぐために現場で継ぎ接ぎを繰り返した「動的な改善(D)」の集積が、結果として既存の美意識(G)を覆す圧倒的な美を生み出した。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動・民藝運動: 大量生産という固定化されたシステム(G)に対し、現場の職人が「手仕事の創発性(D)」をもって応答し、システムのあり方を根底から問い直した運動。
    これらの例は、トップダウンの静的な目標に対し、現場が「行為的直観に基づく動的な創発」をもって応答し、システムを進化させた証左として再評価された。
当日の風景
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3. 総括:2025年の結論

議論を通じて、「日本人としていかに生きるべきか」という問いに対し、「現場(D)の創発的な改善による、静的な目標(G)の更新」という道筋が見出された。

それは、あらかじめ決められた「静的な正解(G)」をなぞることではない。かつて「BORO」や「民藝」がそうであったように、あらゆる現場の人間が、マニュアルに盲従せず、自らの「行為的直観」を信じて対象に関わり続ける。そこから生まれる「創発的な改善」の集積こそが、SDGsという「静的な仕様書」を、生きたシステムへとアップデートし続ける駆動力となる。

「G > D(静による支配)」から「D > G(動による更新)」へ。

この転換こそが、来年度のテーマ「ものづくりの哲学」へと繋がる結論である。

2026年の予定

2026年の年間テーマは ものづくりの哲学 2026 ― 「ホモ・サピエンス(考える人)」から「ホモ・ファーベル(工作する人)」へ ―として、そのコンセプトは下記のものとします。

昨年、私たちは「言葉(ロゴス)」や「規範」だけで生きることの限界を知り、「手(身体)」を動かすことの重要性に辿り着きました。 2026年は、人間を「道具を使い、世界を作り変え、修復する存在(ホモ・ファーベル)」として捉え直し、AI時代の「労働」「技術」「芸術」の意味を問い直す。

2026年の1月は、定例開催通りFactory Art Museum Toyamaにて「『頭 手 心』 ― 偏った能力主義(メリトクラシー)を超えて」と題して開催します。

【活動報告】第89回「日本のポップカルチャーは「『民族(ネイション)』の呪縛を超えるか?」 2025/11/15

11/15(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名、オンライン1名による開催となった。議論の出発点として、まず前回(10月)の「民族とは何か?」の議論の核心をおさらいした。

「民族(ネイション)」とは、「近代(Modern)」が「国民国家」を成立させるために「発明」したフィクションであった。それは、それまでバラバラだった人々を「国民」という一つの物語に統合するため、忠誠心や「血の共同体」という幻想を必要とする、極めて「強いつながり(Strong Ties)」のシステムである。そして、この「強いつながり」の純粋性を維持するため、必然的に「異物(少数派や他者)」を排除するという二重の性質を帯びていた。

今月の問いは、この重い歴史的文脈を踏まえたものである。世界を席巻する日本のポップカルチャー「新ジャポニズム」は、この近代的な「強いつながり」の呪縛からの「解放」なのか。それとも、その「反復」に過ぎないのか。私たちは、この現象を「近代」に対置される「ポストモダン(Postmodern)」の現象として捉え、それが「強いつながり」とは異なる「弱いつながり(Weak Ties)」の構造によって成り立っているのではないか、という仮説を立て、NHKスペシャルの書籍版『新ジャポニズム』の事例を手がかりに、その「光」と「影」の解剖を試みた。


第1部:「新ジャポニズム」の輝き ― 「弱いつながり」の可能性

『新ジャポニズム』が描いたように、世界が熱狂している対象は、コンテンツの「完成品」以上に、その背後にある構造そのものである。

近代の「民族」や「一神教」が「かくあるべき」という強力な「規範(ドグマ)」を提示し、「強いつながり」を要求するのに対し、日本のポップカルチャーが提示するものは、構造が異なるように見える。

  • マンガ(『進撃の巨人』など)は、明確な善悪二元論を提示しない。代わりに「答えのない物語」という「器」を提供し、受け手はそこに自らの複雑な現実を投影し、解釈の「自由」を得る。
  • ボーカロイド(初音ミク)は、カリスマ的な「アーティスト」を提示しない。それは「開かれた創造プロセス」という「道具」そのものであり、誰もが「つくるもの」へと転換できる可能性を提供する。

この構造は、「ポストモダン」的であり、参加者に「強いつながり」を要求しない。人々は「国民」や「信者」として全人格的にコミットするのではなく、「ファン」として、その興味(熱狂)の範囲においてのみ、自発的かつ一時的に繋がる。これが「弱いつながり」の本質である。

この「規範」ではなく「場所」や「道具」を提供する構造は、西洋的な「一神教」の宇宙観とは異なる、「八百万の神々(=多様な価値が並立・共存する)」という日本古来の宇宙観のアナロジーで捉えることができる。

ポップカルチャーとは、『ONE PIECE』という「場所」、『ポケモン』という「場所」、『初音ミク』という「場所」が、それぞれ独立した「タコツボ」として世界中に自然増殖していく、まさに「八百万」的な現象である。これが、まず確認された「光」の側面である。


第2部:「行為的直観」の現代的発露

では、この「ポストモダン」的で「弱いつながり」を基盤とする創造は、いかなるプロセスによって可能となっているのか。ここで私たちは、8月の哲学カフェ「『手触り』の哲学カフェ」で議論した、西田幾多郎の「行為的直観」という概念を再び召喚した。

「行為的直観」とは、設計者の「思念(つくるもの)」が「製作(つくられたもの)」へと具現化し、その「もの」からのフィードバック(=手触り)が、再び設計者の「思念」を更新していくという、主客未分・シームレスな創造の循環プロセスを指す。

日本のポップカルチャー(特にマンガやボカロ)こそ、この「行為的直観」が最も高密度で発揮されている現場ではないだろうか。

  • マンガの週刊連載:作者の「思念(構想)」が「原稿(つくられたもの)」となり、即座に「読者アンケートやSNSの反応(手触り)」を得る。その「手触り」が、翌週の「思念(構想)」をリアルタイムで変容させていく。
  • ボカロ文化:これはさらに先鋭的だ。あるボカロPが発表した「曲(つくられたもの①)」に「手触り」を得た絵師や動画師、リスナーが、新たな「思念」を得て、二次創作・三次創作(つくられたもの②, ③…)を生み出していく。

AdoやYOASOBIの登場は、この「行為的直観」的な創造プロセスが、特定のアーティストからではなく、無数の個人の実践(=弱いつながりのネットワーク)が相互に作用しあう「場所」からスターダムを生み出した、画期的な事例と言える。

この「ボトムアップの創造性」こそ、「新ジャポニズム」が持つ輝きの正体であり、西田哲学の現代的発露として高く評価できる点である。


第3部:「タコツボ」の排他性 ― 「弱いつながり」の呪縛

しかし、私たちの哲学カフェは、この楽観論(光)だけで終わることを許さない。

ここで、「ポストモダン」の「弱いつながり」が持つ、暗い影(パラドックス)が立ち現れる。

「弱いつながり」の共同体(ファンダム)は、「八百万の神々」のアナロジーであるならば、それは必然的に「ムラ社会」の論理を伴う。

  • 近代の「民族」(強いつながり)の排他性:
    ドグマ(教義)やイデオロギーによって人々を統合し、「教義を信じない『異端者』」や「国民ではない『他者』」を明確に排除する。
  • ポストモダンの「ムラ」(弱いつながり)の排他性:
    絶対的な「規範」がない。では何が「ウチ」を統合するのか。それは、その共同体の「空気(暗黙の掟)」である。
    「弱いつながり」は、参加も離脱も自由であるはずだ。しかし、ひとたび「ファンダム(ムラ)」が形成されると、その「タコツボ」内部には、外からは見えない強烈な同調圧力が生まれる。

排他性は、その「空気」を読めない「ヨソモノ(よそ者)」に向けられる。

「ヨソモノ」は「異端」なのではなく「ケガレ(穢れ)」として排除される。「強いつながり」の共同体(近代)のような明確な改宗プロセスがないため、一度「ソト」と見なされれば、加入は極めて困難である。

この「ムラ社会」の排他性は、ファンダムにおける「にわかファン」への蔑視や、「解釈違い」を許さないコミュニティ内の苛烈な非難として観測される。

これは「教義」に反する「異端審問」ではない。その「場所」の「空気」を乱す「ケガレ」の排除であり、関曠野が批判した「近代の民族(ネイション)」が「異物」を排除する論理とは異なる、より古く、より陰湿な「日本的排他性」の反復そのものである。

9月に分析したポピュリズムが「近代のナショナリズム」の変奏であったとすれば、「新ジャポニズム」のファンダムが示す排他性は、「前近代のムラ社会」のポストモダン的(ハイテク)反復である。

「開かれた自由」を謳歌しているはずの「ささやかな共同体」は、その実、デジタル空間に無数の「排他的なタコツボ」を増殖させているだけではないのか。これが、私たちが直面した「影」の側面である。


第4部:結論 ― 12月への問い

今回の議論は、「新ジャポニズム」という現象が、「行為的直観の現代的発露(光)」と「ムラ社会の排他性の反復(影)」という、強烈な二重性を内包していることを明らかにした。

この「創造性(光)」と「排他性(影)」の両義性こそ、私たちが「日本人として」引き受けねばならない「ナショナリティ」のリアルな姿ではないだろうか。

そして、この問いは12月の最終回「SDGs~世界の中の日本:インターショナリティとナショナリティ~」へと直結する。

  • SDGs = 西洋的な「規範(ドグマ)型」のインターショナリティ。「近代」的な「強いつながり」をグローバルに要求する。
  • 新ジャポニズム = 日本的な「空気(ムラ)型」のナショナリティ。「ポストモダン」的な「弱いつながり」の創造性(光)と排他性(影)を併せ持つ。

根本的に異なる「OS」を持つこの両者を、私たちはどう出会わせるべきか。「ムラ」の排他性を克服し、「行為的直観」の創造性を、SDGsというグローバルな課題解決に活かす道筋はあるのか。

「日本人としていかにして生きるべきか?」という一年間の問いは、最終章に向けて、具体的かつ極めて困難な課題を私たちに突きつけている。

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【活動報告】第88回「『民族』という名の魔術」 2025/10/26

10/26(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地5名、オンライン1名による開催となりました。関曠野氏の著作『民族とは何か?』を道しるべに、[1] 関氏の理論的核心を紹介・咀嚼して、[2] それを用いて現代の具体的な政治現象を批判的に分析し、[3] 近代ナショナリズムの呪縛を超えた未来を構想するという、三段階の知的な探求が行われた。

当日のホワイトボード
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【ステップ1】「民族」概念の解剖 ― 「発明」された強力なフィクション

最初のセッションでは、自明視されている「民族」という概念そのものの解体が行われた。

  • 種族との違い: まず、前近代的な「種族」(ethnicity)が「共通の文化的特徴(言語、慣習、宗教など)を持つ人々の集団」を指す言葉であり、ルターのドイツ語訳聖書のような体系的な言語体系や情念に基づく政治的共同体とは明確に区別されていたことが確認された。「外圧に対して血や文化で団結する」という近代的な観念は、古代には存在しなかったことが示された。
  • 近代国家の「要請」: 「民族(ネイション)」は、フランス革命後の近代国家の誕生と共に「発明」されたものと分析された。王への忠誠に代わり、徴兵・納税・標準語教育といった義務を人々に課すため、「『我々の国』のために」と自発的に思わせる強力なイデオロギー装置=「均質な国民」というフィクションが必要とされたことが論じられた。
  • 「想像の共同体」の誕生: このフィクションを強力に支えたのが、宗教改革と印刷技術であったと指摘された。聖書の母国語翻訳により、「同じ言葉で同じテクストを読む」という経験を共有する「想像の共同体」が形成され、これが「言語共同体=民族」という意識の強力な土台となった。

対話では、「なぜ人々はこのフィクションを(時には命を捧げるほど)強く信じるのか?」という情動的側面や、「民族という物語なき国家は可能だったのか?」という機能的側面について、深い議論が交わされた。

【ステップ2】近代が生んだ二つの怪物 ― 「民族自決」と「植民地主義」

続くセッションでは、関氏の最もラディカルな主張である、「民族」という一つの概念が、いかにして正反対に見える二つの暴力を同時に生み出したかの解明が行われた。

  • 「民族自決」=内部への暴力: ウッドロウ・ウィルソンが提唱した「民族自決」(ホワイトボード)は、抑圧からの解放という理想を掲げたが、多民族がモザイク状に暮らす地域で「一つの民族、一つの国家」を追求した結果、新国家の内部に「新たな少数民族」が創出された。「純粋な国民国家」への欲望が、彼らへの強制同化や排斥という「内部への暴力」へとつながったことが指摘された。
  • 「植民地主義」=外部への暴力: 同時に、ヨーロッパの「民族」は自らを「歴史を持つ=理性的=文明的」と定義することで、「歴史を持たない=非理性的=未開」な他者(アジアやアフリカの人々)を「発明」したことが論じられた。これにより、「文明的な我々」が「未開な他者」を導くという「文明化の使命」が生まれ、ホワイトボードの「支配・被支配」の論理、すなわち植民地主義が倫理的に正当化されたと分析された。

対話では、「解放」の理想がなぜ「支配」の論理と地続きになるのか、そして現代において「経済発展」や「民主主義の成熟度」が新たな「文明の尺度」として機能していないか、というスリリングな議論が展開された。

【ステップ3】現代への反響 ― 「物語」の反復と、それを超える試み

最後のセッションでは、これらの理論的枠組みを現代日本へと接続し、その有効性の確認が行われた。

「魔術」をどう乗り越えるか: 議論はそこで終わらず、「民族」の魔術から逃れた先にどのような共同体のあり方が構想できるか、という未来志向の問いへと進んだ。ホワイトボードにも記された「民族混合」や、血縁や文化に依らない「市民宗教」や「作法」といった開かれた共同体の可能性について、白熱した対話が続いた。とりわけ日本のポップカルチャーが世界のZ世代の若者にポジティブな影響を与えている現象から可能性を見出すことができないのかについて、話し合われた。

「参政党現象」の分析: 前回の議論でも取り上げた「参政党現象」に見られる「ナショナル(国家)+ ナチュラル(自然)」という思想や、「縄文から続く、自然と調和した特別な日本人」という物語の分析が行われた。これが、グローバリズムという「外部」と、それに染まった「内部の目覚めていない人々」の両方に対する排他性を内包しており、まさに近代ナショナリズムの「起源の物語」と「排他性の論理」を反復しているのではないか、と批判的に検討された。

当日の風景
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総括
今回の哲学カフェは、理論と現実が交錯し、過去の解剖が未来への問いへとつながる、非常に刺激的で充実した時間となった。
単純な二項対立に陥ることなく、関氏の理論的枠組みを用いて現代の事象を深く読み解き、未来への課題を共有できたことは、大きな成果であった。参加者の真摯な問いと洞察により、時事的なテーマでありながらも、お互いの違いを認識しつつ穏やかに対話を行う、建設的な場となった。