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当日の風景

【活動報告】第88回「『民族』という名の魔術」 2025/10/26

10/26(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地5名、オンライン1名による開催となりました。関曠野氏の著作『民族とは何か?』を道しるべに、[1] 関氏の理論的核心を紹介・咀嚼して、[2] それを用いて現代の具体的な政治現象を批判的に分析し、[3] 近代ナショナリズムの呪縛を超えた未来を構想するという、三段階の知的な探求が行われた。

当日のホワイトボード
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【ステップ1】「民族」概念の解剖 ― 「発明」された強力なフィクション

最初のセッションでは、自明視されている「民族」という概念そのものの解体が行われた。

  • 種族との違い: まず、前近代的な「種族」(ethnicity)が「共通の文化的特徴(言語、慣習、宗教など)を持つ人々の集団」を指す言葉であり、ルターのドイツ語訳聖書のような体系的な言語体系や情念に基づく政治的共同体とは明確に区別されていたことが確認された。「外圧に対して血や文化で団結する」という近代的な観念は、古代には存在しなかったことが示された。
  • 近代国家の「要請」: 「民族(ネイション)」は、フランス革命後の近代国家の誕生と共に「発明」されたものと分析された。王への忠誠に代わり、徴兵・納税・標準語教育といった義務を人々に課すため、「『我々の国』のために」と自発的に思わせる強力なイデオロギー装置=「均質な国民」というフィクションが必要とされたことが論じられた。
  • 「想像の共同体」の誕生: このフィクションを強力に支えたのが、宗教改革と印刷技術であったと指摘された。聖書の母国語翻訳により、「同じ言葉で同じテクストを読む」という経験を共有する「想像の共同体」が形成され、これが「言語共同体=民族」という意識の強力な土台となった。

対話では、「なぜ人々はこのフィクションを(時には命を捧げるほど)強く信じるのか?」という情動的側面や、「民族という物語なき国家は可能だったのか?」という機能的側面について、深い議論が交わされた。

【ステップ2】近代が生んだ二つの怪物 ― 「民族自決」と「植民地主義」

続くセッションでは、関氏の最もラディカルな主張である、「民族」という一つの概念が、いかにして正反対に見える二つの暴力を同時に生み出したかの解明が行われた。

  • 「民族自決」=内部への暴力: ウッドロウ・ウィルソンが提唱した「民族自決」(ホワイトボード)は、抑圧からの解放という理想を掲げたが、多民族がモザイク状に暮らす地域で「一つの民族、一つの国家」を追求した結果、新国家の内部に「新たな少数民族」が創出された。「純粋な国民国家」への欲望が、彼らへの強制同化や排斥という「内部への暴力」へとつながったことが指摘された。
  • 「植民地主義」=外部への暴力: 同時に、ヨーロッパの「民族」は自らを「歴史を持つ=理性的=文明的」と定義することで、「歴史を持たない=非理性的=未開」な他者(アジアやアフリカの人々)を「発明」したことが論じられた。これにより、「文明的な我々」が「未開な他者」を導くという「文明化の使命」が生まれ、ホワイトボードの「支配・被支配」の論理、すなわち植民地主義が倫理的に正当化されたと分析された。

対話では、「解放」の理想がなぜ「支配」の論理と地続きになるのか、そして現代において「経済発展」や「民主主義の成熟度」が新たな「文明の尺度」として機能していないか、というスリリングな議論が展開された。

【ステップ3】現代への反響 ― 「物語」の反復と、それを超える試み

最後のセッションでは、これらの理論的枠組みを現代日本へと接続し、その有効性の確認が行われた。

「魔術」をどう乗り越えるか: 議論はそこで終わらず、「民族」の魔術から逃れた先にどのような共同体のあり方が構想できるか、という未来志向の問いへと進んだ。ホワイトボードにも記された「民族混合」や、血縁や文化に依らない「市民宗教」や「作法」といった開かれた共同体の可能性について、白熱した対話が続いた。とりわけ日本のポップカルチャーが世界のZ世代の若者にポジティブな影響を与えている現象から可能性を見出すことができないのかについて、話し合われた。

「参政党現象」の分析: 前回の議論でも取り上げた「参政党現象」に見られる「ナショナル(国家)+ ナチュラル(自然)」という思想や、「縄文から続く、自然と調和した特別な日本人」という物語の分析が行われた。これが、グローバリズムという「外部」と、それに染まった「内部の目覚めていない人々」の両方に対する排他性を内包しており、まさに近代ナショナリズムの「起源の物語」と「排他性の論理」を反復しているのではないか、と批判的に検討された。

当日の風景
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総括
今回の哲学カフェは、理論と現実が交錯し、過去の解剖が未来への問いへとつながる、非常に刺激的で充実した時間となった。
単純な二項対立に陥ることなく、関氏の理論的枠組みを用いて現代の事象を深く読み解き、未来への課題を共有できたことは、大きな成果であった。参加者の真摯な問いと洞察により、時事的なテーマでありながらも、お互いの違いを認識しつつ穏やかに対話を行う、建設的な場となった。

【活動報告】第87回「静かなる熱狂 ― 参政党現象から日本型ポピュリズムの正体を考える」 2025/9/21

9/21(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地6名による開催となりました。先般の参院選で議席数を伸ばした「参政党」という現代的なテーマを切り口に、「国民とは何か?」を問うという根源的なテーマに至る展開となり、時事的でありながらも本質的な内容を対話する機会となりました。


【第一部】 参政党現象の深層分析 ―「ネイション」と「ネイチャー」の結合

第一部では、参政党の台頭を、単なるポピュリズムではなく、下記の中島岳志さんの動画を参考として戦後日本に底流する独特の思想的系譜から読み解くことを試みた。

まず、参政党の思想的特徴を、国家や民族を重視する「ネイション(Nation)」の志向と、オーガニックやスピリチュアリティに代表される「ネイチャー(Nature)」への回帰という、二つの軸の結合として分析した。この思想的源流は、元左翼活動家でありながら後に独自のナショナリズムへと至った太田竜や、反権威の象徴として一部で語られてきた「縄文」の再解釈に見出すことができる。

参加者からは、この「ネイション+ネイチャー」の世界観が、グローバリズムへの反発や近代社会への不信感を持つ層に対して、「失われた本来の日本を取り戻す」という首尾一貫した物語を提供し、強い吸引力を持っているとの意見が出された。

また、ホワイトボードに描かれた政治思想の座標軸(権威⇔ポピュリズム、左派⇔右派)を用いて、参政党が「ポピュリズム・右派」に属することが確認されただけでなく、「感性」や「価値観」を基盤とする新しいポジションを築いていることが確認された。これは、既存政党への不満の受け皿となるだけでなく、独自の排他性を生み出す構造についても議論が及んだ。


【第二部】 移民大国ドイツのジレンマ ―「統合」の理想と「分断」の現実

第二部では、日本の未来を考える上での重要な参照点として、ドイツの移民統合政策が直面する複雑な現実を検討した。

ドイツは、手厚いドイツ語教育を制度化し、移民が社会の一員となるための現実的な道筋を用意してきた。しかし、2010年代以降の大量移民の流入は、社会のキャパシティを超える事態を招き、結果として極右政党AfD(ドイツのための選択肢)の台頭を許した。

ここでの中心的な論点は、ドイツが直面する移民統合が、見方によってファシズム的な同化教育になりかねない」というジレンマであった。良かれと思って進められる「教育のアップデート」(多様性や主体性の尊重)自体が、知識を持つエリート層による知による支配と見なされ、かえって国民の間に新たな分断を生み出しているのではないか、という鋭い問いが投げかけられた。

さらに、ドイツ社会を支えるキリスト教的な価値観や知識人への信頼と、第一部で議論された日本の「縄文的な価値観(アニミズム、コミュニティ重視)」を対比し、社会を統合する基盤そのものの違いについても議論が深まった。


【第三部】 未来への問い ―「よそ者」と「移民」を再定義する

国家の中に入ってくる「移民」を深く理解するために、自治体の中に入ってくる「よそ者」の違いについて議論することとした。

大きな違いとしては、コミュニケーションギャップの程度の違いと「人種と言語」があるのではないかというコンセンサスが得られた。

この議論を受け、最終的に「日本人ファースト」という言葉を乗り越え、日本社会における「国民」とは何か?という核心的な問いに至った。人種といった生まれに制約される概念ではなく、共に社会を構成する一員としての「国民」をどのように再定義し、新しい共同性を築いていくか。その重い問いを参加者全員で共有し、次回は「国民とは何か」をテーマとすることとして、今回の哲学カフェは締めくくられた。

3. 総括

今回は、参政党現象という現代的なテーマを入り口に、ドイツのリアルな事例を学び、最終的には「国民とは何か」という普遍的かつ哲学的な問いへと至る対話の場となった。

単純な賛成・反対の二項対立に陥ることなく、それぞれの事象の背後にある歴史的・思想的文脈を丁寧に読み解き、未来への課題を共有できたことは、大きな成果であった。

今回の哲学カフェは、時事的な口角泡を飛ばす内容になりかねないにも関わらず、お互いの違いを認識しつつも穏やかに対話を行う

良い時間となりました。ご参加いただいた皆様の真摯な問いと洞察に、心より感謝申し上げます。

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【活動報告】第86回哲学カフェ『「手触り」の哲学カフェ~「哲学エンジニア」の洞察から、「つくる」の未来を探求する ~』2025/8/17

8/17(日)、定例開催のFactory Art Museum Toyama で、現地5名、オンライン1名による開催となりました。、3Dプリンタという現代技術を切り口に、西田幾多郎の「行為的直観」という哲学概念を読み解き、これからの「つくる」ことの本質と未来を探求する、熱意に満ちた対話の場となりました。大いに盛り上がった会となりました。

当日のホワイトボード
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第1部:3Dプリンタと「行為的直観」の共鳴

まず、主催者より、3Dプリンタが持つ「設計と製作のシームレスな関係性」が、西田哲学の「行為的直観」と深く共鳴する点について問題提起が行われました。デジタルデータ(思念)が、ほとんど時間的・空間的な断絶なく物理的な「もの」として現出して、それを見て設計者の思念を修正して、さらにものを改善するという高速のプロセスは、「作られたものから作るものへ」という、行為的直観の弁証法的な性質を、現代の技術で見事に体現しているのではないか、と。

参加者からは、このシームレスな関係性が、実践と理論、制作と設計の壁を溶かし、作り手の創造性を活性化させるという意見が寄せられ、活発な議論の幕開けとなりました。


第2部:ハイデガー哲学との比較と、新たな課題の浮上

議論を深めるため、他の哲学との比較が行われました。特に、ハイデガー哲学との対比が中心的なテーマとなりました。3Dプリンタが可能にする、作り手と「もの」との循環的な対話のあり方は、ハイデガーの言う「世界内存在」における解釈学的循環(世界を理解しつつ、その理解によって自らも変えられていくプロセス)と強い類似性があることが指摘されました。

一方で、テクノロジーが人間を単なる資源として駆り立てる「ゲシュテル(総駆り立て体制)」とは、どう違うのか、という鋭い問いも投げかけられました。ここから議論は、本日の核心的な課題へと発展します。すなわち、「創造性の活性化は、逆説的に、作り手を終わりのない自己改善へと駆り立て、新たな労働の疎外やブラック化に繋がるのではないか?」という、テクノロジーが持つ光と影の両面を直視する、極めて重要な論点が提示されました。


第3部:「行為的直観」を私たちの言葉で掴む

最後に、抽象的な概念を、参加者それぞれの具体的な経験から捉え直す試みが行われました。

ある参加者からは、「過去の実験のプロセスで、物の身になって考えることで、材料の適切な温度に気づいた経験がある」という、まさに「もの」との対話から知が生まれる事例が共有されました。

また、伝統的なマタギが、「獲物の夢を見るほどに対象と同一化することで、初めて仕留めることができる」という技術観を持つことも、行為的直観のあり方として挙げられました。

さらに、複雑で個別性の高い人間の身体を扱う医師の技能も、行為的直観の性質が強いのではないか、という指摘に対し、「医療ロボットの普及は、その暗黙知に支えられた豊かな世界観を、効率の名の下に崩壊させてしまうのではないか」という、未来への深い懸念が示され、対話は締めくくられました。


今回の哲学カフェは、一つの技術から始まり、哲学的な比較、社会的な課題、そして個人の実感へと、対話が有機的に広がっていく、非常に実り多い時間となりました。ご参加いただいた皆様の真摯な問いと洞察に、心より感謝申し上げます。