弟子の投稿です。「空気を読むこと」について山本七平さんのロングセラー「空気の研究」をヒントにして考える哲学カフェを開催しました。
日本人として生きていると「空気を読め」とか「KY」とか良く言われるわけですが、それで自分も何となく使うこともあるわけなのですが、そもそも「空気」というものは一体何なのだろうか?ということをテーマにしました。
ですから、空気の8割が窒素で…みたいな小学校の理科の復習ではありませんよ〜。
はじめに〜空気の研究について〜
1977年に出版されて以来、版を重ねているロングセラーです。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪しげな「空気」なるものの正体を解明し、日本人独特の伝統的な発想や社会構造に原因があることを探ったことが多くの人に影響を与えています。
著者である山本七平さんは、クリスチャンの両親のもとに生まれ太平洋戦争に従軍しフィリピンで捕虜になった経験を持つ人です。戦後は自ら出版社を経営する在野の学者として活躍し、イザヤ・ベンダサン名義の「日本人とユダヤ人」という著書もロングセラーです。
今回も参加者の方には「空気を読むことについて」意見を共有してもらいましたが、日常の人間関係、学校や職場などの場に焦点を絞った内容が多かったです。
ところが、山本七平さんが研究したことは日本社会のもっと深い部分まで探った内容なのです。
空気の正体って何だろう?
空気とは?端的にいうと絶対権をもつ妖怪のようなものです。空気は次の条件のもと発生し、特定の事物を絶対化してしまいます。
空気の発生の条件
1.物神化:ある事物に対して特定の見方を強要して異論を許さなくすること
2.二項対立で物事を把握して数量化しない
官軍vs賊軍、公害vs経済発展、脱原発vs原発稼働など
日本社会ではその時々において絶対的権限をもつ空気が存在し、それは数量化や相対化を許さず、論理による思考をできなくさせます。こういう問題に対して日本では「水を差す」ことで空気による支配を防いできました。水を差すとは要するに「えー!それ変じゃないの?」とツッコミを入れることです。
水を差すことについて
水を差すことを山本氏は腐食作用や消化酵素という表現で例えていますが、この辺りから読者を混乱させる表現が多くなってきます。ですからこの名著は取り扱い注意の部分もあるわけです。
通常性に帰るというのはおそらく日本古来の秩序のあり方に沿うカタチで問題解決の着地点を探っていくようなことでしょうか。
和魂洋才という言葉が良くその実態を捉えているのではないでしょうか?
科挙のない儒教、文明開化(⇔尊王攘夷)、戦後民主主義(⇔戦前のファシズム)
日本的状況倫理(vs固定倫理)
文明開化(水)であれ尊王攘夷(空気)であれ、戦後民主主義(水)であれ戦前のファシズムであれ(空気)であれ、崇拝する対象は変わってもその時々で特定の対象に感情移入してしまうのが我々日本人です。昨日まで教育勅語を信じていた教師が敗戦の直後に黒板に「民主主義」とデカデカ書いちゃうというアレです。
そんなわけで水を差したところでまた別の空気に入れ替わり「空気と水の相互呪縛」から逃げられないのが日本の根本主義(ファンダメンタリズム)です。
空気の支配から逃れる方法はあるのか?
空気と水の相互呪縛から脱出するための打開策は、水を差してツッコミを入れるだけでは不可能です。それは結局、空気教の土俵の上で戦うことになるからです。あやしげな妖怪を打ち倒し、その場の状況に左右されない「固定倫理」に達するまでの道はあるのでしょうか?
次回の哲学カフェではギリシャ哲学やキリスト教では水や空気をどう考えてきたのかという所から日本の社会が固定倫理に到達する方法はあるのか考えてみたいと思います。
今回のレジュメ(PDFファイル)はこちらからご覧いただけます。
【参考文献】
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