哲学カフェの活動報告です。今回はハイデガーの「存在と時間」をテーマに、存在というごく当たり前に思っていることをじっくり考え、哲学的な考え方にふれる内容でした。
上の写真にもあるように、参加された皆さんが思う「存在」について最初に話していただきたました。当たり前すぎて何も思いつかない、自分自信、知覚・認識されること。あると思っていること、などいろいろ出ました。やはり当たり前すぎて、いざ改めて聞かれると答えにくいものです。場も温まったところで存在と時間の内容に駆け足でふれていきます。
ハイデガー主著「存在と時間」について
ハイデガーは20世紀最大の哲学者として賞賛されますが、その理由は何と言っても存在を
時間を切り口にして考えたことです。従来は存在とは永遠・普遍的なものであり、時間とは不確かで刻々と変わっていく不確かなものでした。
それまでの哲学というのは、絶対普遍の存在(神)が基礎にあり、それを見つめる人間との主観-客観の関係を考察したり、カントの言う「時間・空間の直感形式」のように存在するものをどう認識するのかという議論が多くなされてきました。
しかし、ハイデガーは不確かな時間の中に存在を引きずり下ろしてしまいました。
時間を基礎に置いた上で、有限な存在である人間を通して存在の意味を問います。
詳しい内容について確認したい方は、レジュメの中身をご覧ください。
レジュメを読みすすめるなかで出た興味深い話題をいくつか紹介します。
「死への先駆」
・死に至る存在としての自己に目覚めることで本来的な自己になるというが、いきなり死を思うことは極端ではないか。
-> 人間は生と死の間に課せられた有限なものであり、いつの間にか生まれた自己にとっては死を意識することが必要
「存在と存在者」
ハイデガーの形而上学に「存在者」という言葉があるが、存在とどう違うか
->かなり違う。存在と神とすれば、存在者が被造物のようなもの。存在者は世界-内-存在、現存在としての人間であり、動物やもの。存在とはそれらの前提条件になるもの。
「無という存在」
無という存在はあるのか。
->無についてハイデガーは大きな関心を持っていた。無いことが在るのかということになるが「図と地」のように見る視点によって見えかたが変わるように、その時々の世界にあらわれるものが変わることで、無だったものが存在するようになるかもしれない。
ハイデガーの人柄
学術的に最高水準の技法でもって存在と時間を表したハイデガーですが、その最も強い主張は人間が民族の歴史や宿命に結びついた実存として目覚めることにあったようです。田舎の生まれでベルリンなどの都会を嫌っていたハイデガーは故郷や田舎が好きなおじさんでもあり、そういった性格がナチズムの支持やリベラル思想への嫌悪感などにつながっていたのかもしれません。
人間という存在のゆくえ
ハイデガーが考えた人間とは、生と死の間のある有限なものとして世界の中で生きています。彼の存在論の中で、人間は必ず死ぬということが大前提でした。
しかし現在、科学がめざましい発展を遂げ、遺伝子工学やロボット工学、ナノテクノロジーの進歩によって人間が死なない世界(あるいは限りなく長く生き続ける世界)が現実になる可能性が濃くなってきました。
もしそういう世界が訪れたとき、不確かな時間の中にある存在の定義がまったく変わってしまうことになります。人間という存在とは何か。人類全体レベルで見つめ直すときが近づいており、そういうタイミングで私たち現在を生きるものは、科学や哲学発展の歴史で得られた知見を活用して、未来の行く先を決めなくてはならないのでしょう。
哲学カフェがそのためのヒントにつながる場になれば嬉しいかぎりです。