【主宰者コラム】モノローグとダイアローグ

きのうは哲学カフェを開催した。哲学カフェの醍醐味はダイアローグ(対話)にある。

 

そもそもの哲学の起こりはダイアローグである。ソクラテスが産婆法というとき、対話が前提になっている。相手の内なる思考を引っ張り出すというわけである。弟子のプラトンが師ソクラテスの言行録をつづったのは全て「対話篇」であった。

 

相手の内なる思考を引っ張り出すというのは、英語のeducaitonやドイツ語のErziehungの「教育」のもととなっている。

 

また、哲学でよく言われる弁証法とは、産婆法のまたの名Dialektikeとして孫弟子のアリストテレスに受け継がれて、ドイツ哲学において弁証法(Dialektik)として発展した。ヘーゲル哲学やマルクス哲学においては、Dialektikは中心を占めているといってもいいだろう。

ただ、弁証法が発展するにつれて、それは対話(dialogue)の性質を失って、モノローグ(monologue)、独り言になってしまった。哲学が何を言っているのか分からないと言われる理由の一つはそれであろう。

 

哲学カフェのあり方は、ソクラテスの時代への原点回帰という意味合いがある。若い頃にモノローグとしての哲学の訓練を受けた私にとって、ダイアローグとしての哲学は素人同然である。毎回の哲学カフェで他ならぬ私自身が訓練を受けている。

 

いつも、参加者の思考をうまく引き出して形にしているのだろうかという自責の念に駆られているが、少しは上達しているのかもしれず、今回の哲学カフェは具体的な収穫があった。

これからも参加者の思考を育む場としての哲学カフェを続けていきたい。

 

参考書籍

 

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)
プラトン
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